“The Courage to Forgive”
- 3 時間前
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赦す勇気
マタイによる福音書 18:21–35 &
ローマの信徒への手紙 12:9-19
説教者:Pastor Mark Bartsch
神戸ユニオン教会
2026年2月15日
クリスチャンが陥りがちな罠の一つに、私が「いい人(ナイスガイ)」の罠と呼んでいるものがあります。これは特に「赦し」というテーマにおいてよく現れます。はっきりさせておきたいのは、私は皆さんに親切であってほしいということです(私自身も親切な人間でありたいと思っています)。皆さんに「いい人」であってほしいのです。70年代の有名な賛美歌に「彼らは私たちの愛によって、私たちがクリスチャンであることを知るだろう」という歌詞がありますが、それは根本的な真理です。親切さは重要です。厳しく当たるよりも、親切さを通してより多くの人々をキリストに導くことができます。多くを語るより多くを聞き、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(ルカ 6:31)という命令に従う方が、私たちはより良く歩むことができます。
ヨハネによる福音書 1:14には、「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた(イエスのこと)……恵みと真理とに満ちていた」とあります。イエス様は「恵み50%、正義50%」の存在ではありません。その両方が100%だったのです。聖書は、真理の「代わりに」恵みがあるとも、恵みの「ない」真理があるとも言っていません。救い主の中には、その両方が完全に、完璧に調和していました。
赦しのことになると、特に自分が傷ついた時、一部の信者は相手に対して「正直(真理)」であることよりも「いい人(恵み)」であることを選んでしまいます。しかし、人々は親切さを必要としているのと同じくらい、正直さを必要としているのです。もし私たちが、与えられた痛みについて決して正直にならなければ、相手はどうやって学び、成長することができるでしょうか。
十字架の上で苦しみ悶えながら、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ 23:34)と祈るイエス様の姿を私たちは目にします。私たちは意図せずして、その姿を「ただ耐え忍びなさい。不平を言うな。したくなくても赦しなさい」というメッセージに変えてしまいがちです。イエスに従うということは、すぐに赦し、黙り込み、騒ぎを立てないことだと思い込んでいます。特に、誰かが「赦してほしい」と言ってきた時には。
私たちは、聖霊が心の中で働いてくださるのを待つ前に、無理に言葉を口にしてしまうことがよくあります。その結果、多くの信者が「誰かに謝られた瞬間に赦さなければならない」というプレッシャーを感じています。あるいは、すぐに赦せない自分に罪悪感を抱く人もいます。「自分に何か問題があるのではないか」「もっと立派なクリスチャンなら、こんなに苦しまないはずだ」と考えてしまうのです。しかし、それは真実ではありません。
確かに、イエス様は十字架から私たちを赦されました。そして、私たちも赦すように召されています。なぜなら、不寛容(赦さない心)を抱え続けることは、やがて私たちを押しつぶしてしまうからです。私はそれを見てきました。それは、神様が私たちに背負わせようとした重荷ではありません。しかし、だからといって、傷口と正直に向き合う前に、浅はかで礼儀的な「上辺だけの赦し」を差し出すべきだという意味ではありません。私たちの多くは、深く傷ついているのですから。
信じがたいかもしれませんが、赦しの一部には「有害な行動を繰り返してはならない」と教えることも含まれます。神様が私たちを赦される時、神様は私たちに悔い改めと変化をも求めておられます。変化のないところに、真の悔い改めはありません。
ザアカイの例を見れば、それがよく分かります。イエス様が彼を受け入れた時、ザアカイは自分の人生を変えることで応えました。だまし取ったものを返し、不正な生き方をやめたのです。彼はただ「ごめんなさい」と言っただけでなく、行動を起こしました。ルカによる福音書 19:9で、イエス様は彼について「今日、救いがこの家を訪れた」と言われました。赦しは行動を正当化するものではなく、行動を「変える」ものだったのです。
言葉を口にすることは、真の赦しと同じではありません。それは、心が伴わなければ「言葉」だけでクリスチャンになれるわけではないのと同じです。「口でイエスは主であると公に告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるのです」(ローマ 10:9)。救いには、言葉だけでなく信仰が必要です。真の告白は決して口先だけのものではなく、心から湧き上がるものです。
あまりにも頻繁に、私たちは赦しを単なる「マナー」のように扱い、明らかに「良くない」状況なのに「いいよ(大丈夫だよ)」と言ってしまいます。本物の赦しは、傷を無視したり、何もなかった振りをしたりすることではありません。恵みは「否認」を意味しません。赦しとは、正直で、困難な作業です。時間がかかり、勇気が必要です。「霊的に見せるための勇気」ではなく、「実際に何が自分を傷つけたのかについて、真実を語る勇気」です。
時には、最も誠実な言葉がこれである場合もあります。「私はまだ、あなたを赦す準備ができていません。あなたのしたことは私を深く傷つけ、今もその苦しみの中にいます。あなたを赦せるようになるための強さを主に求めていますが、今はまだ無理なのです。私がこれを乗り越えられるよう、私のために祈ってください。」 これこそが正直さであり、聖霊が働かれた時、その人は心から完全に赦すことができるようになるのです。
人間の本能は、相手を責めることです。相手がしたことを頭の中で繰り返し、相手の過ちを列挙し、自分の怒りがいかに正当であるかを説明します。確かに、その怒りが正当なこともあるでしょう。しかし、イエス様はそこから始めることを許されません。イエス様は言われます。「あなたは、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁(はり)に気づかないのか」(マタイ 7:3)。
イエス様は、ちりが存在することを否定しているのではありません。あるいは、それを取り除く必要がないと言っているのでもありません。目に入ったちりは痛むものです。あなたにもちりがあり、私にもあります。そして、私の人生からその痛みを伴うものを取り除くのを助けてくれた信仰の兄弟たちに、私は感謝しています。しかし、癒しが起こる前に、イエス様は「自分の中にあるものに対処しなさい」と求められます。私たちは、自分が育んできた苦々しい思いや、復讐したいという欲求に向き合わなければなりません。口先だけで心がない赦しは、赦しではなく「現実逃避(否認)」です。そして、現実逃避は自由をもたらしません。赦すためには、正直にならなければなりません。怒りを持ち続けたいという思いや、相手に報いを受けさせたいという願いについて、正直になる必要があるのです。
私の赦しに対する理解は、兄との関係の中で形作られました。若い頃、私たちは仲の良い兄弟でした。しかし、私たちの道は分かれました。兄は学業で苦労し、中学校で薬物に手を出しました。兄が借金を返せなくなると、売人たちは私のところへやってきました。殴られたり、新聞配達で稼いだお金を盗まれたりするのは日常茶飯事でした。そこから私の怒りが始まったのです。
高校時代、兄は家出をしました。それが両親に何をもたらしたか――ストレス、恐怖、そして絶え間ない涙を私は見てきました。私にとって「良い」家族の集まりとは、兄がそこにいない集まりのことでした。私は自分の怒りを正当化し、それを「境界線(バウンダリー)」と呼びました。
神様は私の人生の多くの領域で働いてくださいましたが、この場所だけは、神様に触れさせまいとしていました。怒りを手放すことは、兄が私や家族にしたことが「大したことではなかった」と認めることだと思っていたからです。私はその怒りをポケットの中の石のように持ち歩いていました。時々忘れてしまうほど小さいけれど、常にそこにあると感じるほどには重い石でした。
その後、神様は私を神学校へと召されました。実の兄に対して嫌悪感と拒絶を抱きながら聖書を学ぶことは、非常に居心地の悪い経験でした。その期間中、神様はある一つのことを明確にされました。「手放す時だ」ということです。心に残ったのは、イエス様のこの言葉でした。「新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を突き破り、ぶどう酒は流れ出、革袋もだめになる」(ルカ 5:37)。私の「古い怒り」は、神様が私の人生でなそうとしている「新しいこと」を収めることができなかったのです。これは私たちの多くが抱える葛藤です。私たちは、神様が自分の人生や教会、家庭で新しいことをしてくださるのを望んでいますが、絨毯の色を変えることや、古いやり方(古い革袋)を変えることは嫌がるのです。
マタイによる福音書 18章で、イエス様は王に1万タラントンという途方もない額の借金をしていた家来のたとえ話をされました。家来が慈悲を乞うと、王は哀れに思い、借金をすべて帳消しにしました。ところが、その同じ家来は外へ出ると、自分に100デナリというわずかな金を借りている仲間を見つけ、その喉を絞めて支払いを迫ったのです。
それを知った王は激怒しました。「わたしがお前をあわれんでやったように、お前も仲間をあわれんでやるべきではなかったか」(マタイ 18:33)。これこそが、赦しに関するクリスチャンの葛藤の核心です。私たちは、到底返せないほどの負債を赦された家来でありながら、自分に落ち度があった人々から「数ペニー」を回収しようとして人生を費やしていることがよくあります。私たちは神の恵みを求めながら、他人に対しては厳格な正義を求めるのです。
皆さんの中には、恨みという石をあまりにも長く持ち歩きすぎて、それなしで歩く感覚を忘れてしまった人もいるでしょう。重荷に合わせて歩き方を変え、心を守り、「これが当たり前だ」と自分に言い聞かせてきました。しかし、それはイエス様があなたに与えるために死んでくださった命ではありません。
敵(サタン)は、赦さない心を好みます。なぜなら、それが私たちを過去に縛り付けておくからです。傷ついた場面を思い返すたび、受けた侮辱を反芻するたびに、私たちはその瞬間に自分を支配させているのです。しかし、キリストは私たちの罪を赦すために死なれただけでなく、捕らわれている者を自由にするために死なれたのです。そして、時にその「捕らわれの身」とは、傷つけた相手ではなく、自分自身のことなのです。
赦しとは、痛みが重要ではなかったと言うことではありません。「この痛みは私の主人ではない」と言うことです。私よりも神様の方が優れた審判者であると信頼することを選ぶことです。負債を帳消しにする時、私たちは悪を勝たせているのではありません。正義を、それがあるべき場所、つまり聖く正しい神の御手にゆだねているのです。パウロは書いています。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われると書いてあります」(ローマ 12:19)。
ここに勇気が必要です。赦しには、神のものを神に返す勇気が必要です。裁判官や陪審員の席から降りる勇気です。判決を持ち続けることが自分を押しつぶしてきたことを認め、神様の方が自分よりもはるかに明確に物事を見、正しく裁き、完璧に愛してくださると信頼することです。
パウロは「そうしたい気分になるまで待ちなさい」とは言っていません。「手放しなさい」と言っています。赦しが難しいのは、それが感情の働きである前に、従順の働きだからです。準備ができるまで待とうとすれば、永遠に待つことになるかもしれません。赦しとは、平安は後から来ると信じて、負の連鎖を断ち切るという「決断」なのです。
それこそが真の勇気です。何もなかった振りをすることではありません。歯を食いしばって笑顔を作ることでもありません。傷を光の中に持ち出し、「主よ、これは今でも痛みます。しかし、私は自分の怒りよりもあなたを信頼します」と言うことです。
そして、ここには奥義があります。私たちが負債を免除するために手を開くとき、神様はその同じ手を神の平安で満たしてくださいます。かつて苦い思いが占めていた場所に、恵みのためのスペースが生まれます。恨みに費やされていたエネルギーが、愛するための力へと変わります。赦しの奇跡とは、過去が変わることではなく、「私たち自身が変わること」なのです。
私たちが赦しを拒むとき、それは暗黙のうちに「キリストの犠牲は私にとっては十分だが、私を傷つけたあの人にとっては十分ではない」と言っていることになります。私たちは自分を王の上に置いているのです。しかし、私たちが赦すとき、真理を認め、告白することになります。つまり、私たちは皆同じ憐れみを必要としており、裁きは神お一人のものであるという真理です。
ですから今日、「あの人は赦されるに値するか?」と問わないでください。おそらく、値しないでしょう。あなたも、神様に赦されるに値する人間ではありませんでした。代わりにこう問うてください。「私は自由になりたいか?」
赦さないことは、毒を飲みながら相手が死ぬのを待つようなものです。それは、それを蓄えている器(自分自身)を破壊するだけです。手放すことは、相手が正しかったと認めることではありません。あなたがこれ以上、相手の囚人であることを拒否するということです。神様の促し――あの「燃える炭火」――が、神にしかできない業を成してくださると信じて、あなたは光の中へと歩み去るのです。
赦しは、他人に与える贈り物であるだけでなく、ようやく神様から受け取ることを自分に許した贈り物なのです。それは「いいクリスチャン」の演技の終わりであり、真に正直な、キリストに似た強さの始まりです。傷跡を見つめて、「これは起きたことだ。それは間違っていた。しかし、それはもう私を支配しない」と言えるようになることなのです。
今日ここを去る時、ポケットの中の石について考えてみてください。その石についている「名前」を思い浮かべてください。それは、その重さに耐える価値がありますか? 足を引きずって歩き続ける価値がありますか? それとも、すべてを赦してくださった神様が、あなたを傷つけた人のことも扱ってくださると信頼する準備はできていますか?
ディスカッション・クエスチョン
「いい人(ナイスガイ)」であることと、赦しにおいて「真に正直」であることの違いは、どのような点にあると思いますか? なぜ、単に礼儀正しく振る舞うよりも、正直になることの方が難しく、あるいはリスクがあると感じるのでしょうか?
ローマの信徒への手紙 12:19には「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」とあります。 怒りや復讐心を持ち続ける代わりに、実生活において「神様にゆだねる(神様の余地を残す)」とは、具体的にどのような行動を指すと思いますか?
あなたが持ち歩いている「ポケットの中の石(古い傷や恨み)」はありますか? もしその状況を自分自身で抱え込まずに神様に委ねることができたら、あなたの人生における「自由」とはどのような姿をしているでしょうか?




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