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我らの日用の糧を今日も与えたまえ

  • 3 日前
  • 読了時間: 11分

「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」

詩篇 37:18–29、出エジプト記 16:4–5

神戸ユニオン教会 ― 2026年2月1日

説教者:Mark Bartsch牧師



「主の祈り」について引き続き学んでいきましょう。

主の祈りは単なる決まり文句ではなく、イエスを信じる人が霊的形成をするためのプロセスです。これまでの3週間の説教を通して、私たちは主について深く考えてきました。

最初の部分の「天にまします我らの父よ、願わくは御名をあがめさせたまえ」(マタイ 6:9)から学び始め、神が親しみのある父であると同時に、限りなく神聖な遠い存在でもあるとわかりました。

そして次の部分の「御国をきたらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」(マタイ 6:10)へと進みましたが、これは服従を意味し、自分の予定表よりも神の計画に従うという宣言でした。(誰もが自分の予定表を持っています)


そして今日はその次の部分へ進み、自分自身が必要とするものについて考えます。主の祈りで神の栄光を知り、御心に服従した後、自分にとって必要なものを祈るようイエスは次のように教えておられます。「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」(マタイ 6:11)。一見、これは主の祈りの中で最も簡単な祈りのように感じられます。自分が何を欲しているかを神に打ち明ける、いわば「嘆願」や「祈願」のように見えます。しかし実はこの嘆願の祈りは、祈り続けるのが非常に難しいものかもしれません。これは人間にとって核心的な問題、すなわち自分は誰の言うことを聞き、誰に従うかに深く関わっているからです。


この祈りは、単に食べ物や住まいを求めるものではありません。神に頼るという霊的な訓練につながるものであり、「あなたはわたしを信頼しているか」というシンプルで難しい課題を神から問いかけられます。

私は何度かロッククライミングをしたことがあります。クライマーもロープで安全確保するビレイヤーの役もしましたが、どちらも同じ教訓を教えてくれます。登っている途中、岩から離れなければ前進できない時自分の体重を思い切ってロープに預けて岩を蹴ります。ロープに身を委ねて手を離すのは勇気がいります。自分の手足を使って自力で岩にしがみついていると体力を消耗して疲れます。思い切って全身をロープに預けるとロープがピンと張ります。その瞬間、自分がロープに支えられているとわかります。今日私が伝えたいのはこのことです。神はあなたのロープをしっかりと握っておられます。神に身を委ねるのを恐れないでください。


実を言うと私は主の祈りのこの一節にずっと悩んできました。深刻な空腹を経験したことのない私が、日々の糧を与えてくださいと祈るのはどういう意味なのか自問してきました。普段の生活では「日々の糧を与えてください」と祈っても、食べ物はすでに与えられています。私たちは朝、目が覚めてその日の食べ物が手に入るかどうかと心配することはなく、朝食に何を食べようかと考えるくらいのものです。


私の育った家庭は裕福ではなかったので、両親が請求書の支払いや倹約に苦心していたのを覚えています。経済的なストレスや不安もありました。しかし食卓には毎回食事が並んでいました。豪華なステーキではなくとも、いつも十分な量の健康的な食事がありました。

私たちの中にはパンをもっとくださいというより、食べる量を少し減らした方がよい人もいます。日々の糧を祈るとはどういう意味でしょうか。 これは食べ物がない時の祈りではありません。神を信頼するという祈りです。食べ物があるのを当然と思わず、神からの贈り物だと思い出すための祈りです。

私たちが心配すべきなのは飢えではなく、誰が私たちを養ってくださっているかを忘れてしまうことです。


信頼の神学

私たちの社会では、自立することがよいとされています。経済的に自立し、事前に計画し、将来に備えるよう教えられます。一方、神の御国の経済は異なる論理で動いています。「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈ることは、自分が人生の究極的な供給者ではないと認めることです。

弟子たちがイエスの空腹を心配していたとき、イエスはより深い力の源を指し示されました。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(ヨハネ4:34)。

食べ物とは単にカロリーを摂取するものではなく、神のご臨在と目的によって力を得ることだとイエスは言われました。自立するだけでは私たちは常に飢えるでしょう。しかし神の御心を行うと、俗世からは得られない満足が与えられます。


このことは詩篇37篇で語られています。「主は 全き人の日々を知っておられ 彼らのゆずりは 永遠に続く。彼らは わざわいのときにも恥を見ず 飢饉のときにも満ち足りる」(詩篇 37:18–19)。

この詩篇が約束しているのは、安楽や必要以上に得ることではありません。神は「知っておられ」、「見ておられ」、困難な時にもご自身の民を「支えてくださる」という約束です。イエスは「今年の年収を与えたまえ」とも、「二度と願わなくていいほどの蓄えを与えたまえ」とも教えませんでした。そのような祈りは、今より大きな倉に穀物を蓄えようとしたけれども死んでしまった愚か者の金持ちのすることです(ルカ 12:16–21)。イエスが愚か者と呼ぶ人物に注意しましょう。イエスは祈りを未来ではなく今日一日に絞られました。


詩篇37篇にその知恵が書いてあります。「一人の正しい人が持つわずかなものは 多くの悪しき者が持つ富にまさる」(詩篇 37:16)。なぜなら信頼とは、どれだけ多く持っているかではなく、誰を信頼するかにかかっているからです。「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず 」(箴言 3:5)とある通り、聖書は信頼することに何度も言及します。


マナのテスト

イエスがここで教えていることを理解するために、荒野の時代を見てみましょう。「主はモーセに言われた。 『見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す』」(出エジプト記 16:4)。

これが「マナのテスト」でした。神は民が必要とするものを的確に与えられました。それは民が神を信頼するのをやめるような方法ではありませんでした。一日に必要な分だけのマナを集めることが許され、もし蓄えようとすれば、「虫が付いて臭くなった」(出エジプト記 16:20)とあります。問題は神が下さったものではなく民の不安にありました。

私たちの人生の何かが今日臭くなっているとしたら、それは神の落ち度ではなく、神が今日一日のために与えてくださったものを、明日以降へ溜め込もうとしているからかもしれません。神は将来もずっと続けて与えてくださると信じる代わりに、マナを蓄えているのかもしれません。


どこに信頼を置くか

与えてくださるお方から目を逸らし、自分自身を頼り始めるとマナのテストに失敗します。詩篇は真の強さがどこにあるかを思い出させてくれます。 「ある者は戦車を ある者は馬を求める。しかし私たちは 私たちの神 主の御名を呼び求める」(詩篇 20:7)。

古代では馬と戦車が防衛と力の究極の象徴でした。現代の私たちのいわゆる戦車は、銀行の預金口座、経歴、健康、あるいは予備計画でしょう。それを持つこと自体に問題はありませんが、それを信頼すると大きな問題が起こります。戦車はこわれ、馬は疲弊します。一方で主は変わることなくそこにおられます。


詩篇37篇は人生の知恵とともにこの真理を語ります。「若かったころも年老いた今も 私は見たことがない。正しい人が見捨てられることを。その子孫が食べ物を乞うことを」(詩篇 37:25)。これは否定ではなく証しです。長く生き、過去を振り返って「神はいつも誠実であった」と言う人の声です。


信頼の本質

信頼するのは受け身ではありません。詩篇37篇にこうあります。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主が成し遂げてくださる」(詩篇 37:5)。

今週、信頼の本質について考えていたとき、勤務先の学校の前にある横断歩道に一人の年配の女性が立っていました。交通量が多く、車がスピードを出して通り過ぎる場所です。歩行者信号が青になると、女性は向かってくる車に目もくれず、そのまま道路を渡り始めました。しかし何事も起こりませんでした。走って来た車は信号を見てブレーキを踏み、女性と私は無事に横断歩道を渡りました。

このようなことは毎日何十万回と起きています。その女性はルールを信頼していました。赤信号になれば車は止まるものだと信じていたからです。もし車が止まらなければニュースになります。女性は車の見ず知らずの運転手を信頼していました。文明社会の生活は、このような基本的な信頼が不可欠です。私たちが信号機や見知らぬドライバーを信頼できるのなら、生ける神の御言葉をそれ以上に信頼できるはずです。


疑いの中での信頼

信頼とは疑いが全くないことではありません。マルコによる福音書9章で、イエスは悪霊に苦しめられている子どもの父親に出会います。弟子たちが癒せなかった後、イエスがその子を癒されました。イエスは父親にいくつか質問をしてから、「信じる者には、どんなことでもできるのです」と言われました。父親は叫んで言いました。「信じます。不信仰な私をお助けください」(マルコ 9:24)。イエスは父親がその前に正直に言った疑いのことを責めずに息子を癒されました。これが「日用の糧」の祈りです。


同様に、ペテロが水の上を歩こうとして、主から目を逸らし沈み始めたとき、「イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで」(マタイ 14:31)とあります。私たちの信頼が揺らぐときも主は揺らぎません。


荒野をさまよったイスラエルの民は、何度も神を疑いました。それでも神は毎日欠かさずマナを降らせたと記されています。彼らが忠実だった日も不平を言っていた日もです。


命のパン

祈りの中の日用の糧(daily bread)を実際のパンと考えると核心を逃します。

これは信頼についての祈りです。「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と祈るとき、私たちは「イエスご自身」を求めていることになります。主は言われました。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」(ヨハネ 6:35)。

この日用の糧の祈りをささげるとき、私たちは将来の家計の問題を解決してほしいとか、冷蔵庫を食料でいっぱいにしてほしいと願っているのではありません。神に肉体的にも霊的にも私たちを支えてくださいと、今日神が私たちの人生の一部となり、私たちが吸う空気となり、寄り頼む力となってくださいと、求めているのです。


15年前のちょうど今頃、1月末に私は妻のステファニーと一緒に神戸に来ました。職はなく、英会話学校の講師の職に応募しましたが、「経験がありすぎるから」(You have too much experience)という理由で断られました。どうすればいいか分からなかった時、ジェラード牧師が私に説教を頼んでくれました。同じ頃、さいとうりえさんが啓明学院の教師の仕事を勧めてくれました。

神は備えてくださいます。神の御名の一つはヤハウェ・イルエ(主は備えてくださる)です。今あなたが必要としているものが何であれ、主に備えてくださるよう求めてください。



ここから祈りを実践へと移します。聖餐式(コミュニオン)は、「日々の糧」の祈りを目に見える形にしたものです。これから私たちは、自分ではなく誰かが焼いたパンと、自分が働いて得たのではない杯を受け取ります。それは私たちが自分一人で何もかもできるという存在ではなく、神の恵みによって生きていることを思い出させてくれます。

満たされて聖餐式のテーブルに来る人もいれば、満たされない思いで来る人もいます。すぐに神を信頼する人もいれば、「主よ、信じます。不信仰な私を助けてください」と祈りながら来る人もいます。しかし神の約束は同じです。


詩篇の作者は証ししています。「若かったころも年老いた今も 私は見たことがない。正しい人が見捨てられることを。その子孫が食べ物を乞うことを」(詩篇 37:25)。今日も神はご自身の民が本当に必要としているものを与えてくださいます。

みなさんがこの聖卓へ進む時、明日を神の手に委ねてください。心の奥の恐れを神に差し出してください。手を広げ、心を開いて命のパン、すなわちイエス・キリストを受け取ってください。あなたのために捧げられています。

祈りましょう。




話し合ってみよう Discussion Questions

  1. コントロール(支配)か信頼か: 「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」という祈りを聞いたとき、自分の人生の中で最もコントロールを手放すのが難しい領域はどこですか。 今のあなたにとって「ロープに体を預ける」とは、具体的にどのような行動を意味しますか。

  2. 現代のマナ・テスト: イスラエルの民は一日分だけを与えられ、蓄えることを禁じられました。私たちが恐れから溜め込みがちな「現代のマナ」にはどのようなものがありますか。 それは神への信頼にどう影響していますか。

  3. 疑いながらの信頼: マルコ9章の父親は「信じます。不信仰な私をお助けください」と祈りました。このような誠実な祈りは、私たちの信仰や信頼のあり方、そしてありのままの姿で神の前に出ることについて、どのような教えを与えてくれますか。

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