Deliver us from Evil
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「悪より救いだしたまえ― 主の祈り8」
エフェソの信徒への手紙 6:10-17 / マタイによる福音書 12:38-45
神戸ユニオン教会 ― 2026年3月1日
説教者:Mark Bartsch牧師
イエスは、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」(マタイ 6:13)と祈るよう教えてくれました。この祈りは、私たちの毎日の現実を正直に認めるよう導いてくれます。世の中の「悪」という概念は、多くの場合、濾過されて実体のよくわからないものにすり替わっています。私の場合も、「悪」の定義といえば個人の過ちや、「善良な人間」であろうとする内なる葛藤や、規則を破ることであると教えられて育ちました。
確かに私たちの性質は堕落したものかもしれません。しかし聖書が描くのはもっと複雑で挑戦的な姿です。クリスチャンは公平無私な世の中で生きているわけではありません。この世界には私たちが善良となることを望まず、神に近づくことや神に従うことを望まない、実在するずる賢い太古からの敵が存在しています。
聖書はこの点について明確です。パウロはこう記しました。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」(エフェソ 6:12)。
私たちの究極の戦いは、政治的なものでも文化的なものでもありません。気難しい隣人との人間関係や、己の悪い習慣との闘いでもありません。目に見える世界の裏側には霊的な次元があり、私たちを食い尽くそうと狙っている「闇の世界」が存在しています。
厳しい真実を言うと、私たちは自分自身の力では闇の世界に到底勝ち目はありません。以前話したように、霊的な領域において私たちの防衛能力は無きに等しいものです。例えるなら一匹の羊が狼の群れに立ち向かうよりももっと無謀なことです。私たちが生き残る唯一の道はイエスの御名を呼び、守っていただけるよう主のそばを離れずにいることだけです。
イエスはご自身を羊飼いと呼び、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)と言われました。「悪より救いだしたまえ」という祈りの重みを理解するには、まず自分の無力さを認めることが必要です。安全が得られるのは、自分の力で「強く」「賢く」「頑強に」なるのではなく、羊飼いイエスのそばにいる時です。自分が羊飼いよりもこの土地(人生)をよく知っていると考えた途端に、私たちは深刻な危険にさらされます。
先週、私たちは荒野のイエスについて学びました。イエスは肉体の力で誘惑者に立ち向かったのではありません。神の御言葉でサタンを三度退けました。戦いの場はいつも私たちの精神と心の中にあり、敵が使うのは「嘘」という武器であると示されました。
嘘がこの世で最も嫌うものは「真理の光」です。「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」(詩編 119:105)とあります。多くの人が人生でつまずくのは、聖書の光を灯していないからです。暗くて危険な部屋を、聖書の灯火を灯さずに自分の記憶だけで歩こうとするからです。その暗闇の部屋(人生と呼ばれる)で敵はしょっちゅう家具の配置を変えて、私たちが勢いよく物にぶつかるのを離れた所から眺めてあざ笑っています。
この敵の最も危険な嘘の一つは「自己充足感(自分一人だけで大丈夫」という思い込みで、私も身に覚えがあります。自分の力で戦い、自分の物語の主人公でありたい。しかしイエスはサタンの本性をこう語られました。「悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである」(ヨハネ 8:44)。
敵であるサタンは頭に角を生やし、三叉の槍を持ち、恐ろし気な姿でやって来るわけではありません。そのようなハリウッド的なサタンの姿ではすぐに敵だとばれてしまいます。悪は映画の中だけのフィクションで、むしろコミカルな姿だと油断させ、月曜日の朝の憂鬱な現実とは無関係だと思わせます。サタンの本当の戦略はもっと巧妙です。唯一の目的は私たちを主から引き離し、イエスと共にある豊かな命から遠ざけることです。正面攻撃ではなく、巧妙な手管を使って私たちを羊飼いから引き離そうとします。「一人で対処できる」、「十分に成長した」、「もう誰かに頼る必要はない」とサタンはあなたにささやくのです。
この「自立」(神からの独立)は致命的です。家を掃除した男のたとえ話があります。彼は家をきれいに掃き清め、すべてを整理整頓しましたが、その状態を維持するために自分の力に頼りました。神の存在が家になかったため、悪魔は自分よりもさらに邪悪な七つの悪霊を連れて戻ってきました。「そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」(マタイ12:45)。ごきぶりが空っぽの暗い隅を見つけて増殖するように、悪は人が自分自身に頼っている場所に巣くい、その人はもはや聖霊に満たされることはなくなります。
嘘の父(サタン)がコミュニティの中でどのように働くかを理解するのに、数年前に読んだスティーヴン・キングの『ニードフル・シングス』(必要な品)という本を思い浮かべます。ある小さな町に、町の外から来た男が店を開きます。店には、人々が自分を満たすために「必要(needful)」だと思い込んでいる品々が並んでいます。希少な野球カード、特効薬、良き時代を思い出させる宝石などです。
しかし必要な品の代価は金銭だけではなく、「小さな頼み事」を実行しなければなりません。それは近所の人へのいやがらせや、悪い噂を広めるといった小さな事で、大して害のない行為に思えますが、それが積み重なって町は生き地獄と化しました。何十年も平和に暮らしてきた近所の人たちが、突然お互いを敵と見なすようになりました。真の敵はそれを見て、ふんぞり返って笑っています。興味がある人にはこのテーマに関するもっと神学的な本も紹介できます。
教会や家族内での敵の戦略もわかりやすい正面攻撃ではありません。むしろ巧妙な駆け引きと言えます。敵は、あなたが神よりも必要だと考えるものを見つけ出します。それは評判、快適さ、怒る権利、支配欲といったものです。敵はそれをあなたに差し出し、見返りに要求するのはあなたの品性を損なわせることです。
「むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです」(ヤコブ1:14)とある通り、私たちは外側から攻撃されるだけでなく、自分の内側から妥協してしまいます。神から出るのではない、値打ちのないつまらないものと引き換えに自分の中の平安を売り渡してしまいます。敵は、「神に従うと損をするぞ」とか「神はあなたに出し惜しみしている」という嘘を吹き込みます。
マルタが妹のことで不平を言ったとき、イエスはこう諭されました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」(ルカ10:42)。その「一つ」とは主から離れず、つながり続けることです。
エデンの園以来、嘘の内容は今も同じです。「神は本当にそう言われたのですか」とささやく声がするのです(創世記 3:1)。「神はあなたの未来を託すには値しないから、頼らないで自分で自分を守らなければならない」とか「人を赦すな、それが常識というものだ」とか「第一に自分の幸せを考えろ」という嘘です。敵は隣人を「愛すべき存在」ではなく「対処すべき邪魔者」として見るように私たちを訓練します。
そして私たちが敵の取引に応じ、妥協し、信頼の外側に足を踏み出して敵のささやきが成功した時、敵は私が「グレート・スイッチ(大転換)」と呼ぶ行動に出ます。「誘惑する者」から「告発する者」に変わります。「お前はこれを受けるに値する」とささやいた同じ声が、今度は「なんてことをしたんだ」と責め立てます。「誰にもばれないよ」と言った同じささやきが、「皆が見ているぞ」とあざ笑います。「をまとえ。身を隠せ。お前の恥を覆い隠せ」と詰め寄ります。
嘘に対峙するものが真理であるように、告発者に対峙するものは「告白」です。頭の中にある二つの声の違いを知ることは極めて重要です。聖霊はあなたを復活と作新へと導くために具体的に罪を「指摘(convicting)」します。嘘の父は、あなたを絶望と無力感に突き落とすために漠然と「非難(condemning)」します。聖霊は「あなたが言ったあの言葉は不親切だった。でも今から癒やしに向かおう」と言います。告発者は、「お前は冷たい人間だ。偽善者だ。真のクリスチャンならあんなことはしない」と言います。聖霊の声はあなたのアイデンティティを回復させますが、敵の声はあなたのアイデンティティを攻撃します。
ある若い戦士が自分の内面で起きている戦いについて、長老に相談する古い話があります。戦士の心の中で、部族のために正しいことをしたいという思いと、片や自分の利益になることを追い求めようとする考えがせめぎ合っています。「これらの二つの思いのどちらが勝つのか」と若い戦士が尋ねると長老は答えました。「お前がどちらに心を砕くかによって決まる」。
これは単なる民話ではなく弟子訓練そのものです。つまり真の問いは、「あなたは今何に心を砕いているか」です。私たちは、被造物が「ともにうめいている」(ローマ 8:22)世界に住んでいます。被造物が罪によってひび割れています。十字架におけるキリストの勝利と、万物の最終的な回復(再臨)の狭間の「すでに、しかしまだ」(Already but not yet)という緊張の中で私たちは生きています。敵(悪)の目的は勝利ではありません。敵は敗北したことを知っています。敵の目的はもっと単純でもっと暗黒のもの、つまりあなたを自分と一緒に悪に引きずり下ろすことです。十字架の出来事がまるでなかったかのように、あなたに人生を送らせることです。
勝利はイエスにつながり続ける人のものです。イエスは勝利に唯一必要なお方です。私たちの希望のありかは、自分の意志の力や成熟度や自己規律ではなく、キリストがすでに勝利されたという事実に集約されます。
十字架は悲劇的な事故でも、回避できたはずの事故でもありません。十字架は完全な勝利でした。イエスは「様々な支配と権威の武装を解除し、それらをキリストの凱旋の行列に捕虜として加えて、さらしものにされました」(コロサイ2:15)。つまり十字架で敗北に見えたものは武装解除であり、恥に見えたものは勝利でした。十字架が決定的な勝利であったゆえに、私たちは人生に恐れを持つ必要はなくなりました。
霊的戦いとは、自らの力で立派な戦士になることではありません。すでに勝利されたキリストの中にとどまり続ければよいのです。キリストとともにいることで、私たちは圧倒的な勝利者以上の者になります。パウロは、「どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」(ローマ8:38-39)と宣言しています。あなたの心の外側にある何ものも、キリストの愛からあなたを引き裂くことはできません。
しかし唯一の危険はそこからさまよい歩くことです。それは神が手を離されるからではなく、私たちが羊の囲いの安全よりも「自立という幻想」を選ぶからです。「悪より救い出したまえ」と祈る時、私たちは次の三つを認めましょう。「戦いは実際に起こっている」「私たちは弱い」「しかしキリストは強い」。
良い羊飼いであるキリストはすでにご自身の命を捨てられました。獰猛な獅子や狼のような悪に立ち向かい、勝利されました。最終的な決定権を持つ言葉は、嘘の父ではなく羊飼いにあります。主はこう言われました。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(ルカ12:32)。
では私たちはどう戦うべきでしょうか。静かに、そしてキリストを積極的に信頼して戦うのです。
声を吟味する(チェックする)。 ある思いが浮かんだらよく吟味して調べてください。聖霊は具体的かつ建設的に罪を指摘します。告発者(敵)は破壊的にあなたを非難します。もしその声があなたのアイデンティティを攻撃するなら(お前は価値がない、お前は失敗作だ、など)、それはキリストの御霊ではありません。御霊はあなたのまちがった行動を正し、あなたのアイデンティティを大事に「恵み」の中で守ります。嘘と議論してはいけません。嘘はあなたの心への「侵入者」だと見抜いてください。そして羊飼いへ心を向けてください。
真理を言葉にする。 敵は暗闇の部屋の中で家具を動かします。光を灯してください。イエスは荒野で御言葉を心の中で考えただけでなく、言葉にして言われました。あなたの恐れが「お前は孤独だ」と言うなら、「主は私の羊飼いである」と大きな声で言ってください。あなたの恥が、「神はお前を見捨てた」と言うなら、「キリスト・イエスにある者には、もはや罪の宣告は下らない」と言ってください。真理を口にすることで、あなたの不安定な感情は神の不変の現実へと変わっていきます。
自分を満たす。 悪い習慣を追い出して自分を空にするだけでは不十分です。空っぽの家は侵入者に占領されやすくなります。心を礼拝と感謝で満たしてください。
秘密主義をやめる。 敵の好む武器はあなたの「孤立」です。恥は沈黙の中で大きくなりますが、光の中ではしぼんで枯れます。攻撃を受けていると感じたら、教会の信頼できる兄弟姉妹に話してください。あなたの苦悩が口から出て言葉にされた瞬間、敵である告発者は力を失います。羊の囲いは牢獄ではなく頑丈な守りです。
この後私たちは聖餐のテーブルに向かいます。ここで戦いの構図が変わります。私たちはどちらの側に心を向け、どちらを養っているでしょうか。私たちは、プライド、自己防衛、にせの自立といった、大して価値のない安っぽいものに心を奪われるのをやめ、唯一必要なお方で満たされようとしてここにいます。このパンと杯は、私たちの平安の代価がすでに支払われたと思い出させてくれます。私たちは敵との戦いに勝ったからこの聖餐のテーブルに来るわけではありません。羊飼いが私たちを導いてくださったからです。
もしあなたが敵である告発者の声に耳を貸していたなら、今こそ救い主の声に耳を傾けてください。あなたは恥をかくためにここに招かれたのではなく、回復のために招かれました。これはあなたのために裂かれた主の体、あなたのために流された主の血です。求めれば、赦しは与えられます。
祈りましょう。
考えてみよう 話し合ってみよう
もし「店主」があなたの人生に店を開いて、羊飼いから離れて自立するようあなたを誘惑するとしたら、店主は陳列窓にどんな「小物」(trinket)を置くでしょうか。秘密をなくして 他の人と一緒に「光の中にとどまる」と、窓の商品の正体を見破るのにどう役立ちますか。
失敗したとき、あなたの内なる声は「悪いことをした」(聖霊の声)と言うほうが多いですか、それとも「自分はだめな人間だ」(告発者の声)と言うほうが多いですか。今日の説教にあった「グレート・スイッチ(大転換)」に基づいて、あなたの漠然とした恥の感情に対抗できるよう、今週「口に出して言う」ための聖書の真理を一つ挙げてください。





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