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道の守護神

  • 2 時間前
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道の守護神

詩編 121編  ユダの手紙 1:24–25

神戸ユニオン教会   2026年3月15日

説教者 Mark Bartsch牧師


今回の説教は、私達を聖週間へと直接つながります。来週の日曜日、私はオーストラリアにおり、一週間早くこのメッセージを皆さんと分かち合いたいと思いました。来週はロイ兄が賛美と礼拝の時を導いてくださり、その翌週には、私達はこの会堂に集まり、シュロの枝を振り、上着を道に敷いて、主イエスが最後のエルサレム入城をされたのを共にお祝いします。


不在中の牧会上の連絡事項をいくつかお伝えします。オーストラリア滞在中に何かあり、牧会的なお世話が必要な場合は、引き続きメールで連絡をしてください。急な入院や、万が一の葬儀などの場合は、私とステファニーの両方に連絡してください。彼女は按手を受けた牧師であり、司式や準備のサポートをいたします。今日、私達は「守り手」としての主についてお話ししますが、私が国外にいる間も、この教会は守られ、皆さんは守られているということを知っておいてください。

また、私と学生たちのために祈ってください。14名の学生がホームステイのためにオーストラリアへ渡りますが、そのほとんどがクリスチャンの家庭に滞在します。道中の安全と、この期間中に学生たちが神の愛をはっきりと見ることができるようにお祈りください。


エルサレムへの旅路、今日の詩編121編を見ると、その旅の核心が見えてきます。詩編121編は「都上(みやこのぼり)の歌」の一つです。詩編120編から134編まで、全部で15の詩、これらは、ユダヤの人々が年に一度の大きな祭(過越祭、七週の祭、仮庵の祭)のためにエルサレムへと向かう道中で歌われた歌でした。それぞれの祭は、神がご自分の民のためにしてくださった重要な出来事を記念するものでした。過越祭、神がイスラエルをエジプトの奴隷状態から救い出された夜を記念します。神は民に子羊を犠牲に捧げ、その血を家の戸口に塗るよう命じられ、死の天使がエジプトを巡り、その血を見たとき、それらの家は過ぎ越されました。この時の食事は、イスラエルがエジプトを出て自由への旅を始める前夜を覚えるためでした。七週の祭りは過越祭から50日後に訪れ、小麦の収穫を祝う祭りでした。人々は収穫の初穂を捧げ、神の恵みに感謝しました。新約聖書において、この祭りは主イエスが約束した通り、聖霊が信者たちに注がれたことで、より深い意味を持つようになったのです。仮庵の祭りは、イスラエルがエジプトを出て荒野で過ごした40年間を偲ぶものでした。祭りの間、人々は仮設の小屋に住み、神が荒野を導きながら忠実に養ってくださった間、先祖たちが天幕で暮らしたことを思い起こしたのです。これらは巡礼者たちがエルサレムへ向かう道中で「登り歌」を歌いながら祝うために旅した祭りのことです。こうして人々は年に3度、家族を連れてエルサレムへと旅立ち、近くの村から来る者もいれば、何日も歩いて来る者もいました。そして彼らは埃っぽい道を歩き、神の都へと続く丘を登りながら、これらの登り歌を歌ったのがこの詩篇121篇の背景です。道を行く旅人が丘を見上げ、イスラエルを救い、彼らを養い、荒野を導かれた主こそが、今もなお彼らを見守っておられる主であることを思い起こす場面です。

エルサレムへの旅は決して容易ではありませんでした。エルサレムは海抜約750メートルの高地にあります。エリコからエルサレムへ向かうには、1,000メートル以上の標高差を登らなければなりませんでした。例えるなら、JR芦屋駅から六甲山の頂上まで登るのが約900メートルですから、それ以上の登りです。当時はケーブルカーもバスもありません。非常に裕福な人を除いて、全員が歩いて、というより「登って」行かなければなりませんでした。皆さんが最後に六甲山の頂上まで登ったのはいつでしょうか。私は年に6回から10回ほど登りますが、頂上に着く頃には息が切れています。しかも、私は猛獣(猪はいますが、それほど危険ではないです)や強盗を心配する必要はありません。しかし、当時の巡礼者たちは違いました。詩編はこのように始まります。「私は山々に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのか。」(詩編121:1)これはロマンチックな場面ではありません。山は実際に危険な場所でした。山賊が潜み、先の見えない曲がり角が続く人生そのもののような場所です。その答えは続きます。「私の助けは、天地を造られたお方から。」(詩編121:2)。巡礼者は山そのものを信頼しているわけではありません。山を越えた先にある助けを見ています。天地を造られた創造主は、道よりも、危険よりも、旅人の弱さよりも偉大な方です。


先週、私の学校はテスト期間でした。図書館で男子生徒のグループが勉強しているのを見かけました。彼らはお互いに教え合っていましたが、彼らは助けたいと思っていても助ける能力のない相手に助けを求めていました。すぐそばには答えを知っている優秀な女子生徒のグループがいて、さらには教師である私も座っていました。結局は私が近づいて助けることになり、国語(古典日本語)の勉強を始めた時に、助けられる女子生徒たちを紹介しました。私の助けはどこから来るのか。 助けられる者から助けを求めよ!多くの者は間違った源に頼りがちです。真に助けられない人や場所から救いを求め、そして日本には、真の助けの源がどこにあるかを知らない人が大勢います。信者として私達に求められていることの一つは、真に助けられるお方へと人々を導くことなのです。「私の助けはどこから来るのか。」――本当に助けることができる方に助けを求めてください。

守り手(Shamar)この詩編の核心にあるのは、ヘブライ語の「シャマール(shamar)」という言葉です。これは「守る」「監視する」「守護する」という意味で、わずか8節の間に6回も登場します。神はたまに注意を我々に向けるのではなく、絶えずご自分の民を見守っておられます。「守り手」とは、サッカーのゴールキーパーのような存在です。そして、その守るべき「価値あるもの」とは、他ならぬ「あなた」のことです。「主は、あなたの足をよろけさせず。あなたを守る方はまどろむこともない。」(詩編121:3)。急な坂道で最も恐ろしいのは足を滑らせることです。六甲山のようにヘリコプターが助けに来てくれるわけではありません。しかし、詩編の著者は、神の主権的な眼差し中であなたの足が滑ることはないと言います。これは、クリスチャンが肉体的に決してつまずかないという意味ではありません。つまり、神の注視する外で起こることは何もない。道が険しくとも、神の御心は揺るがず、たとえ我々がその情勢を把握できなくとも、神は理解しておられます。

「イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」(詩編121:4)。異教の神々は眠ります。しかし、主は決して眠らず、疲れず、注意がそれることもありません。キーパーは常に任務に就いています。諸国の神々は眠っています。エリヤがカルメル山でバアルの預言者たちと対峙した物語で、彼は彼らを嘲り言った。「もっと大声で叫べ、バアルは眠っている。起こせ。」(列王記上18:27)彼らの神は揺り動かされる必要があったのです。しかし主は決して眠らない、疲れることもない、気を散らすこともない、休むこともない、守り手は常に職務に就いています。あなたが眠る間も、主は眠らない。あなたが気づかない間も、主は完全に気づいており、主の守りはずっと変わりません。

昼も夜も守る方「主はあなたを守る方。主はあなたの右手をおおう陰。」(詩編121:5)。古代の近東において、日陰は気休めではなく「生存」に関わるものでした。主があなたの陰であるということは、主があなたと危険の間に立ってくださるということです。ヨナの植物が枯れた時のことを思い出すと、なんと不愉快なことだったでしょう。あの地方の太陽は人を殺します。主があなたの陰であるとは、主があなたと危険の間に立ちはだかると言うことです。私はスペインに行ったことがありません。子供の頃、勇敢な男たちが闘牛場の中で雄牛と対峙する姿を見たくてたまらなかったのです。これは本題とは関係ないですが、闘牛に関する興味深い事実としてリングへの近さは、ボクシングやバスケットボールのようにチケット代にほとんど影響しません。スペインの闘牛では、席が日陰にあるかどうかでチケットの値段が決まるそうです。主は私達をその日陰に入れてくださいます。神の守りは、時として静かな保護、熱い太陽を遮る雲のように現れます。「昼も、日があなたを打つことはなく、夜も月があなたを打つことはない。」(詩編121:6)。目に見える危険も、目に見えない不安も、主の守りの中にあります。古代世界では月を精神的な苦痛や不安定さと結びつけ、実際、救急看護師や医師と話すと、満月の夜には病院が大変なことになると彼らは言います。

脅威が物理的であれ、感情的であれ、霊的であれ、主の守りはそのすべてに及びます。


永遠の守り「主は、すべての災いからあなたを守り、あなたの魂を守られる。」(詩編121:7)。ここで疑問が湧くかもしれません。「もし主がすべての災いから守ってくださるなら、なぜ信者も苦しむのか」聖書はその現実に正直です。キリストに従う者の中には、信仰のために大きな苦しみを受けた者もいます。命を捧げた者さえいます。主イエスの弟子たちの多くも、やがて殉教の道を歩みました。主イエスはペテロにさえこう告げました。「年を取ったとき、あなたは行きたくないところへ連れて行かれるだろう」と。「まことに、まことに、あなたに告げます。あなたが若いときは、自分で帯を締め、行きたいところへ行っていました。しかし、年をとったときには、手を伸ばし、他人が帯を締め、行きたくないところへ連れて行かれるのです。」(ヨハネによる福音書21:18)聖書は、この御言葉がペテロが神を賛美する死の様を示していると伝えています。教会の伝統によれば、使徒ペテロは後にローマで信仰のために殉教したとされています。よって、この約束は神の民に苦痛や困難が決して訪れないという意味ではなく、聖書は主を信頼する者が苦難を免れるとは決して約束していません。信仰深い者たちも病や喪失、失望、危険の中を歩みます。私自身の人生にも困難で試練に満ちた出来事が起り、そうした瞬間を通してさえ、神が私を守り支えてくださっていることが確かに分かりました。


詩篇が約束をするのは、より深く、より偉大なことです。それは、悪が神の民に対して決して最終的な支配権を持たないことを意味します。それは、神が与えてくださった命を究極的に破壊できるものは何もないことを意味します。私達の命は、神の御手の中にしっかりと守られています。神の守りとは、単に50年や100年の約束ではありません。それは永遠にまで及ぶ約束なのです。詩編はこう結ばれます。「主は、あなたを行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」(詩編121:8)。 この同じ約束がユダの手紙の最後にも記されています。「あなたがたを、つまずかないように守り、大きな喜びをもって、きずのない者として栄光の御前に立たせることができる方…」(ユダ 24–25)。一歩一歩、旅立ちのたび、帰還のたび、今から、そして永遠に、この同じ約束が、ユダの書簡の結びの言葉にも再び現れます。ユダは偽りの教えと霊的な混乱に囲まれ、圧迫下にある教会に書き送り、彼は、新約聖書で最も力強い確信の一つをもって締めくくっています。私達の救いは、私達が神を握る力ではなく、神が私達を握っておられる力にかかっているのです。


これは預言者イザヤが語った真理と同じです。「若者は疲れて倒れ、若い男もつまずいて倒れる。しかし、主を待ち望む者は新たに力を得る。」(イザヤ書40:30-31)人の力は衰え、人の注意は散漫になり、しかし神の注意はそうではなく、アブラハム、イサク、ヤコブに約束をされた契約の神は、今日その約束を守られる同じ神で、神は守り続けておられます。


巡礼者たちがエルサレムへ向かう道中でこの詩編を歌った時、この詩篇が予見した最後の旅路が主イエスのご自身の十字架刑へと続く旅路の道と知りながら進まれたのです。都に入られると、群衆は叫んだ。「ホサナ! 主の御名によって来られる方に祝福あれ!」(マルコ11:9)「ホサナ」は「救いたまえ」を意味する。詩篇121篇の助けを求める叫びは、主イエス・キリストの十字架において個人的な答えを我々は見いだすのです。


天地の創造主は自らの創造物の中に入られ、巡礼者たちと同じ危険な道を歩まれました。灼熱の太陽、夜の闇、暴力の脅威、友の裏切りに向き合われたのです。私達の現実から距離を置かれず、その中に踏み込まれました。主がエルサレムへの最後の上り坂を歩まれたとき、そこが十字架へと続いていることをご存じでした。神がどのように私達を「守られる」のかを知りたければ、十字架を見なければなりません。十字架の上で、悪が勝利したかのように見えましたが、復活を通して、神は罪と死を根本から打ち破られました。これこそが、神が私達を究極の悪から救う道です。


それゆえ、ユダの書簡はこれほどの確信をもって結ばれるのです。「唯一の救い主である神に、栄光と威光と力と権威が、私達の主イエス・キリストを通して、すべての時代の前から、今、そして永遠に、ありますように。アーメン。」(ユダ25)すべての時を支配する神こそが、今日あなたの人生を握る救い主です。私達は、自らの人生の管理者ではないと認めることから始まります。私達の不安の多くは、すべてが私達自身の警戒心、計画、支配力に依存しているという思い込みから生じます。しかし聖書はこう告げます。「ある者は戦車に、ある者は馬に頼る。しかし私達は、私達の神、主の御名に頼る。」(詩篇20:7)


現代の戦車は銀行口座、キャリア、健康、あるいは評判かもしれない。どれも究極的にはあなたを救えません。あなたの守り手、救い主は違います。聖週を迎えるにあたり、このことを覚えておきましょう。エルサレムへの道は栄光に至る前に苦難へと通じていました。神の守りとは、必ずしも即座の救済のように見えるわけではなく、時には耐え抜く力のように見えます。時には暗闇の中で揺るがない信仰のように見えます。しかし主イエスが死に、復活されたゆえに、あなたの罪が最終的な言葉を持つことはありません。あなたの苦しみが最終的な言葉を持つことはありません。悪が最終的な言葉を持つことはありません。詩篇121篇の約束とユダの手紙の確信は、あなたが神を握りしめることではなく、神があなたを握りしめることに依っているのです。

主はあなたの足を険しい道で支える方。

主は眠ることのない方。

主は民を故郷へ導く方。

「私の助けは、天地を造られた主から来る。」 その助けは、主イエス・キリストにおいて完全に明らかにされました。この方こそ、私達をつまずかないように守り、大きな喜びとともに、私達を神の御前に導いてくださる方です。アーメン。


分かち合いの質問

  1. 詩編121編1-2節で、著者は、助けは主から来ると言っています。今日、人々は通常どこに助けや安心を求めているでしょうか。

  2. 詩編は、神が昼も夜も私達を見守っておられると言っています。神が眠ることなく、常にあなたの人生を心に留めておられると知ることは、どのようにあなたを励ましますか。

  3. 説教の中で、神を信頼することは人生が容易になることはないと説明されました。困難な状況にあるとき、私達はどのようにして神を信頼し続けることができるでしょうか。

  4. 主イエスのおかげで、悪や苦しみが最終的な決定権を持つことはありません。主イエスの死と復活は、あなたの将来にどのような希望を与えてくれますか。

 
 
 

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