見失ったが見つかった
- 9月14日
- 読了時間: 8分

「見失ったが見つかった」
ルカによる福音書 15:1-10
説教者:Stephanie Bartsch牧師
神戸ユニオン教会
2025年9月14日
早速この聖書の箇所の文脈に入り込んでみましょう。イエスは多くの「罪人」や徴税人のそばに座って教えを説いておられました。この場面を想像してみてください。私には彼らがイエスに近づき、周りを囲み、地面に座るのが見えます。木々の梢が彼らの上に影を落としています。彼らはイエスの教えをよく聞こうとして近くに寄り、このイエスという人物は本物なのかそうでないのか見極めようとするかのように、イエスの表情をじっと見つめます。
同じ場所にはパリサイ人や律法学者もいました。ユダヤ教の宗教組織の指導者で、信仰と実践を守っている人たちです。彼らは疑わし気な目を向け、なぜイエスが、神殿に入る資格のない「社会の下層」に属する人たちを歓迎するのかと訝しんでいました。
イエスの話はまず羊飼いの視点から始まります。群衆の中にいた多くの労働者階級の人々には、羊飼いの経験があるかもしれません。ユダヤ人の子どもは男女ともに、父親の羊の群れを世話しました。聖書には、アベル、アブラハム、イサク、ヤコブ、ロト、ラバン、モーセ、ラケル、ダビデ、アモスなどの羊飼いが登場しますが、これはほんの一例に過ぎません。
イエスの時代の中東では、生活は主に屋外で営まれ、家畜の世話が生活の大半を占め、それが生活の糧でした。当時の社会では、羊飼いは中流の下の職業でした。羊飼いはお互いに協力し、夜には羊を小さな囲いの中か、または柵に囲われた広い平らな野原に他の人の羊と一緒に入れていました。羊は自分の飼い主の声を知っていたので、朝になって仲間の羊飼いの羊と自分の羊を容易に分けることができました。羊飼いは羊を狙う動物から羊を守るために、夜は交代で囲いの入り口で眠りました。
イエスがルカ15章で語りかけている人々は、一体感が強い地域社会に属していました。彼らは羊の安全を守る難しさを知っており、また羊は大事な生計手段でした。羊の群れの世話は大変な仕事でしたが、低賃金でした。羊が行方不明になり死んでいるのが見つかった場合、野生動物に殺されたのであれば羊飼いは賠償する必要はありません。しかし羊が迷って川で溺れたり、井戸や穴に落ちて足を折ったりすると、羊飼いは自分のわずかな賃金から賠償金を支払わねばなりません。主人に雇われている羊飼いが少しでも良い報酬を得ようとするなら、羊を安全に守る必要がありました。
イエスは次に、家の中で銀貨を失くした女性の話をします。
1世紀のパレスチナでは、中流階級以下の家々はつながっていて、油や小麦粉や卵が切れたら料理の最中に隣の家に借りに行きました。また洗濯した物を絞る手伝いをしてほしいと近所の人が頼みに来たかもしれません。その後、乾燥した暑い気候の中、洗濯物を屋上に干したことでしょう。
ほとんどの家は中央に中庭があり、部屋がひとつかふたつありました。家畜は別の囲いに飼われていました。安全上、石壁を切った正面入り口は一つだけでした。非常に貧しい家では部屋が一つしかなく、そこで料理をし、家族で部屋を共有し、床に敷いたマットの上で家族が一緒に寝たと思われます。そして近所の人と非常に密接な生活を送っていました。このような生活は日本や他の地域で存在してきましたが、北アメリカではあまり見られません。人に与えたり人から与えられたりして分かち合う真のコミュニティの姿であり、私たちKUCの目指すコミュニティです。
イエスが語るこの二つのたとえ話には、まさにこうしたコミュニティが描かれています。現代の私たちの生活からは、かけ離れているように思えます。彼らは自然環境と密接に関わり、日常生活の中でお互いの距離が近く、生活を維持するために協力して働かねばなりませんでした。ですから当然喜びや悲しみも互いに分かち合いました。
私たちKUCファミリーも喜びや悲しみを分かち合い、人からどう思われるかなどを気にすることなく、正直にありのままに人生を分かち合えるよう願っています。
ところで皆さんは今までに何かを失くした経験はありますか。その時のこと、そして失くしたものが何だったか思い出してみてください。
兄夫婦といとこが日本に来たとき、阪神対巨人の野球の試合を見に行きました。私は化粧室に入って、財布を個室の棚に置き忘れて来ました。座席に戻って気づいた時、兄といとこはすぐに球場の事務室に行くよう言いました。甲子園球場は満席で4万6千人以上の人がいました。それでも私は、ここは日本だから大丈夫と財布のことは心配しませんでした。しかしいとこは心配して、すぐにクレジットカードを止めるよう言いました。隣と前の席にいた人たちが私たちのトラブルに気づき、事情を話すと警備員を呼んでくれました。
そして私は警備員と一緒にスタジアムをぐるりと20分ほど歩いて落とし物預かり所に行ってみると、予想通り私の財布が届いていました。本当にほっとしました。いとこや兄夫婦もとても喜んでくれました。私が財布をなくしたことを、私の周りの観客席のタイガースファンたちは知っていました。座席に戻ると周りの人たちにどうだったか尋ねられ、財布があったと伝えると、彼らは「やったね」と言って喜びグータッチをしてくれました。
そのような瞬間、つまり安堵と喜び、見知らぬ人たちとの祝福が、まさにイエスが話されていることです。失くしたものが見つかる喜び、元に戻る喜び、最も大切なものが再び守られたと知る喜び。神が私たち、ご自身の民をご自身のもとに連れ戻してくださる時、そこにはさらに大きな喜びがあります。
イエスを信じ、イエスに従う私たちの信仰は、神学や哲学を完璧に正しく理解した上で築かれるものではありません。イエスがここで話され教えられているように、単純なことなのです。誰かが迷子になったら私たちは探しに行かねばなりません。私たちはイエスの使命に参加するよう召されています。傷つき、猛獣に追われ、あるいはどこかで迷子になっている羊を救うために私たちは夜に外に出て行きます。その間、囲いの中にいる羊を見ていてくれるようクリスチャンのコミュニティに頼みます。
ところが私たちはよくパリサイ人のように行動しがちです。正しい祈りをし、正しい生き方をし、正しい犠牲を捧げ、「正しい」人たちとだけ一緒にいたいと思いがちです。この種の「宗教的実践」は私たちを渇いた状態にし、何かがないような空虚を感じさせます。イエスはここで「どのように私に従うか肝心な点を見失っている」と言っておられます。
イエスに従うとはリスクを背負うことです。そのためコミュニティに助けを求めましょう。誰かを助けに行くときには、他の人に手伝ってもらいます。そして誰かが助け出されたら皆で一緒に喜び、その人を見つけた喜びの中で共に神を賛美しましょう。
ここにいる私たちは成熟したクリスチャンです。もはや乳飲み子ではありません。このメッセージは私たちに向けられています。私たちはイエスのやり方に従うべきです。より完璧に生きようと努力するのではなく、イエスの基準に達しないときに自分を責めるのでもなく、私たちの羊飼いであるイエスが模範を示してくださったように、信仰をもって踏み出すという、より多くのリスクを取るべきです。イエスは「犠牲ではなく憐みを望む」と言われました。
見知らぬ人を愛するリスクを冒してください。時間や気力がないときでも、努力して誰かを助けるリスクを冒してください。相手が感謝しないとわかっていても親切にするリスクを冒してください。新しい人と友達になるリスクを冒してください。自分とは異なる社会経済的階層の人たちと交流するリスクを冒してください。深刻で複雑な問題を抱えているような人を大切にするリスクを冒してください。
イエスが笑い、喜んでいるのを聞きたいと思います。イエスが喜びのあまり飛び跳ね、踊る姿を見たいと思います。天使たちが歌い、神を賛美する歌声も聞きたいと思います。あなたもそう思いませんか。
次は少し気恥ずかしい話です。
マークと私は週に数回、近所の温泉に行ってリラックスします。その温泉で一人の女性と友達になりました。その人は8か月ほど前に交通事故に遭い、腰と脊椎を負傷し、今でも10日に一度、痛みを和らげる強い注射を打っています。注射以外に腰の痛みを治す方法はないかと私に聞くので、骨や筋肉が痛いときには私は整骨院に行くけど、結構効果があると伝えました。その後彼女は整骨院に通い始め、注射と併用して痛みが軽減していると聞きました。
しかし1週間ほど前、彼女は温泉に来て、痛くてどうしようもないと嘆きました。私がクリスチャンなのを彼女は知っていて、以前から彼女のために祈っていると伝えていました。でもその時その瞬間に、私はその場で彼女のために祈りたいと強烈に思いました。私たちはタオルを体に巻き、浴場に立っていて、他にも人がいるという気まずい状況ではありましたが、彼女が承諾したので私は簡単な祈りを捧げました。「イエスの御名によって祈ります。早く彼女を癒してください」。祈っている間彼女は目を閉じ、一瞬でその時間は終わりましたが、こういうことが今までに二回ありました。私は気恥ずかしく感じましたが、彼女は全く恥ずかしがりませんでした。
ここにいるKUCの成熟したクリスチャンである皆さん、私が何よりも伝えたいのはこのことです。居心地のよい安全領域であるコンフォートゾーンにとどまり続けるクリスチャンでいようという考えは捨ててください。コンフォートゾーンから出て、イエスのようになってください。
神はあなたのためにそうしてくださいました。神はあなたを恐ろしい野獣の群れから救出して連れて帰り、あなたがふらふらと迷って歩いていた時にも救ってくださいました。それと同じことを私と一緒に他の人のためにしましょう。
皆でイエスに喜びをもたらしましょう。イエスが笑い、喜び、歓喜されるそのお顔を見つめましょう。かつて失われていたものが、今や見つけられたのです。
祈りましょう。





コメント