神のために生きる
- 6月22日
- 読了時間: 9分

「神のために生きる」
詩編139
説教者:Mary Zhao 神戸ユニオン教会 2025年6月22日
「 主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り 遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに 主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み 御手をわたしの上に置いていてくださる。その驚くべき知識はわたしを超え あまりにも高くて到達できない。……
あなたは、わたしの内臓を造り 母の胎内にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって 驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか わたしの魂はよく知っている。……
あなたの御計らいは わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。数えようとしても、砂の粒より多く その果てを極めたと思っても わたしはなお、あなたの中にいる」(詩編 139)
今朝ここに立って「神のために生きる」というメッセージをみなさんにお話しできるのを光栄に思います。
さて、ペトロについてはみなさんも馴染み深い人物でしょう。何週間か前の説教で、「ペトロは私たちと同じように良い所もあれば失敗もある人物なので、気軽に彼と話すことができる」とありましたが、このことは私に大きな安らぎを与えてくれます。ペトロとつながるのに完璧な文法や深い神学がなくてもかまわないと思えます。ペトロは私たちよりもっと多くの間違いを犯したかもしれないのですから。
「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。 それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです」(Ⅰペトロ4:1-2)。
心構え(attitude)とは何でしょうか。中国語の説明がシンプルで分かりやすいかもしれません。それは「あなたの心で決めること」です。神は私たちの心を大切にされます。
「(主は)人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(Ⅰサムエル16:7)。
「この民は、口でわたしに近づき 唇でわたしを敬うが 心はわたしから遠く離れている」(イザヤ29:13)。
「人から出て来るものこそ、人を汚す。 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」(マルコ7:20-23)
絶望的な罪人に対して、神はどのようになされるでしょうか。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:16-17)。
「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ1:21)。
これらの聖句は、私を信仰生活に導いてくれ、また聖霊の導きによって神と私との関係を成長させてくれる聖句です。
私たちは誰のために、また何のために生きるかを自分自身の心で決断します。
この世では、多くの人が親のため、子のため、果たしたい夢のために生きています。つまり私たちはみな何かを求めて生きています。でも、その何かとは何でしょう。
何かとは、イエスの言われる「虫が食ったり、さび付いたりする」(マタイ6:19-20)ものでしょうか。それとも永遠に続くものでしょうか。
親、子ども、夢はそれ自体悪いものではなく非常によいものです。しかしそれが最終的な目標になると、私たちは失望したり衰弱したりすることになります。主のために生きるとは、自分自身にではなく主に頼り、永遠の命につながることです。人や物のために生きるのは、一見どんなに有意義に見えても最終的には失望と破滅につながります。
私は無神論者の国で育ちました。物質主義が中心にあり、給料の額や所有する車や子どもの通う学校の名前が重要でした。
しかし神が私をその思考から遠ざけてくれました。突然ではなく徐々にそうなりました。私は自分を誇るためではなく、主がどのように私を引き寄せてくださり、どのように他の人を引き寄せることができるかを紹介するために、私の話をしようと思います。
大学時代、ある有名な人が来るというのでクリスチャンの祈祷会に誘われました。そこでは数人の年配の女性が頭を垂れて「神よ、あなたは私の髪の数までご存じです」と言って祈っていました。こう言っては申し訳ないですが、祈祷会は退屈で私には何の意味も成しませんでした。
その後、レックスと私が結婚してからバイブルスタディに誘われました。そこでは「悪人にあらがうな。もし右の頬をひっぱたかれたら左の頬も出すように」と話し合っていました。なんて臆病で奇妙な人たちだろうと思いましたが、彼らは私の持っていない何かを持っていると感じました。また彼らは良い人なのだと心の底では思っていました。
当時私は必死で富と名声を追い求めていましたが、突然父が亡くなりました。父は有能で賢く、力強い人で、私を支え、慈しんでくれました。しかし死の床で見た父は弱く絶望的で、これが今まで私の模範であった同じ父とは思えないほどでした。家族もお金も薬も名声も、父を死から遠ざけることはできませんでした。
私は悲しみに打ちのめされました。父を失った悲しみの上に、自分のアイデンティティを失った悲しみも加わりました。これから誰のために生きて行けばよいのかわかりませんでした。
心の中に空洞ができ、人生に絶望した非常に暗い時期でした。
そのうち三度目のクリスチャンとの遭遇がありました。神は私に日本人のクリスチャン女性を送ってくださり、教会に誘われました。私がすべての希望を捨てていた時期のことです。
そして教会で心に触れる歌を聞きました。
「私が弱っている時、あなたは私の力
あなたは私が探し求める宝
あなたは私のすべて
私が倒れると、あなたは私を抱き上げ
私が乾くと、あなたは私の杯を満たしてくださる
あなたは私のすべて
イエス、神の子羊 御名にふさわしい」
この歌を聞いて私は涙を抑えきれませんでした。私の心は神の力に捕らえられ、神の愛に満たされました。私はイエスを救い主として受け入れました。今後神のためだけに生きて行こうと心に決めました。
しかしそれは簡単な事ではありません。神はそれをご存じで、ペトロも知っています。
ペトロは3年半の間イエスに従っていました。奇蹟を自分の目で見て、水の上を歩いたこともありました。山の上で神の声を聞きました。それでもペトロは自分の頭での理解力と自分の力に頼っていました。永遠の命とは、この地上でイエスとともにこの世を治めることだと考えていました。
イエスが捕らえられた後、周囲の目を気にしてイエスを三度否定しました。
後にイエスの復活後、イエスは驚くべきことをされました。ペトロを叱りませんでした。また、「私が言ったとおりになっただろう」とも言われませんでした。その代わりに、イエスはペトロに三度尋ねられました。「わたしを愛しているか」(ヨハネ21:15-17)。
不思議なことに私がイエスの愛を受け入れるきっかけとなったのも、クリスチャンと三度目に出会った時でした。一度目は祈りを捧げていた年配の女性たち、二度目はもう片方の頬を出す議論をしていた風変わりなクリスチャンたち。それらのクリスチャンたちは、私が神の愛によって完全に神に引き寄せられる瞬間のために、私の心を準備させてくれた人たちでした。
イエスは、ペトロに愛しているかと尋ねる度にペトロの心の傷を癒されました。ペトロに再出発、新しい始まりをお与えになりました。
打ちひしがれ、へりくだったペトロは、もはや自分のために生きることも他人に認められるために生きることもやめ、永遠のいのちを与えてくださった主のために生きました。ペトロは主の永遠の愛に頼りました。
ペトロは紀元62~64年頃、現在のトルコ北部の信者に向けて手紙を書きました。教会は成長していましたが、ローマ社会からの圧力も強まっていました。クリスチャンはローマ皇帝崇拝を拒否したり、異教の祭りへの参加を拒んだりしたので、誤解され、反逆者とか無神論者などと呼ばれました。
ネロ皇帝の時代に迫害はさらに悪化し、クリスチャンは拷問され、殺されました。ペトロはこのネロの時代に殉教しました。
ペトロはクリスチャンたちに、隠れたり逃げたりするのではなく、「あなたがたも同じ心構えで武装しなさい」(Ⅰペトロ4:1)と書きました。
ペトロは、苦しみは武器になると教えています。常識では奇妙に聞こえますが、しかし真実です。キリストのための苦しみによって私たちは形作られ、清められ、キリストに近づきます。
このペトロの手紙の教えのおかげで、教会は過去250年以上の間の10回の大規模な迫害と多くの小規模な迫害を生き延び、大きな勝利を収めることができました。聖霊の羊飼いは実に時宜を得ています。
「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)。
「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、……」(ヘブライ12:2)。
「それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです」(Ⅰペトロ4:2)。
これがこの世のために生きるか神のために生きるかの境界線です。
モーセは十戒を持って下山した時、民が黄金の牛を礼拝するのを見ました。モーセは砂の上に線を引き、民に黄金の牛を拝むか主に従うかどちらか選ぶよう言いました。現在でも神は砂の上に線を引いておられます。
あなたは線を越えて主の側に立ちますか。
自分の欲することが肉から来ているか、それとも御霊から来ているか、どうやって知ることができますか。これは難しいことですが、ペトロはキリストを見るよう答えをくれています。
「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです」(Ⅰペトロ3:18)。
イエスは私たちの模範です。イエスは利己的な理由で苦しまれたのではありません。鞭打たれ、殴られ、十字架につけられた時も、暴力で反撃することはありませんでした。イエスは神のご意志に服従され、十字架刑を受け入れました。それゆえ私たちは救われました。
それは砂の上にひかれた線か、道の分岐点か、片方は広くもう一方は狭い二本の道かもしれません。
このスライドの絵は私たちが選択しなければならないことを思い出させてくれます。
(スライド)
私たちはこの世の側にとどまるのでしょうか。それとも一歩踏み出してイエスに従う道を選
び、私たちの父のもとへ神の子である人々を導く人になるのでしょうか。私たちの父は、私たちを創造し、私たちに永遠のいのちを用意し、私たちと永遠に生きることを望んでおられます。
「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(ヨハネ14:3)。
(スライド)
親愛なるみなさん、神のために生きる準備はできていますか。





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