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恵みの中で信仰に堅く立つ

  • 7月6日
  • 読了時間: 14分

「恵みの中で信仰に堅く立つ」

ペトロの手紙一5:1-11

説教者:Mark Bartsch牧師

神戸ユニオン教会 ―

2025年7月6日



さて、私たちはペトロの手紙一を終えようとしています。この手紙の物語は、つまりペトロの人生の物語ですが、希望に支えられています。ただの希望ではなく、生ける希望です。非常に深く、堅固な希望なので、世がそれを失わせようとしても私たちは希望を失いません。

実際、世は希望を失わせようとします。それは絶望の中にある希望の物語で、私にもありますし、多くの皆さんも経験しています。人生が厳しく、答えが見つからず、元の生活に戻るのは奇跡のように難しいと感じる暗い日々。ただ持ちこたえようとするだけでせいいっぱいの毎日。私はそういう人たちが、イエスに立ち返るのを何度も見てきました。それは簡単だったからではなく、他に行く所がなかったからです。


そのことはヨハネ6章の場面を思い起こさせます。「わたしが命のパンである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲まなければ、永遠のいのちは得られない」というイエスの厳しい教えですが、今聞いてもやはり厳しい教えです。イエスがそう話すのを聞いた当時の人々の多くが、(メガチャーチ2~3か所が埋まるほどの何千という人数が)イエスの元を去って行きました。イエスは彼らを追わず、教えを和らげもせず、ただ真実のみを話されました。愛のある真実です。

ある映画のセリフを引用します。「Can you handle the truth? (あなたは真実に耐えられるか)」。


ペトロは真実に耐えましたが、それが簡単であるかのような振りはしませんでした。「主よ、すばらしいことです。私たちは完全に理解できます」とは言いません。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」(ヨハネ6:68)と言いました。多くの弟子と同じように、ペトロもイエスの元から去りたかったと、ほのめかしていますが、「イエスが命である」と知って留まりました。

これが、ペトロの手紙のすべての土台となっていて、ペトロが抱いている希望です。それは簡単ではありません。しかし私の尊敬する人の中で、希望が簡単だと言う人は誰もいません。


その同じ希望をペトロは手紙の終わりで、私たちに伝えようとしています。疲れている人々へ。プレッシャーにさらされている人々へ。そして私たちのような人々へ。

なぜなら、ペトロが手紙を書いた人々は、困難な時代に生きていたからです。彼らは離散させられ、社会から追いやられ、のけ者であり、追放者でした。彼らは反対、苦悩、喪失、不安定の憂き目に遭っていました。


この手紙全体を読んだ時、試練は神が作るものではないが、私たちが神に自分を委ねるなら、神は試練を用いることができるし、また用いるだろうと私は思いました。神は私たちの苦しみを無駄にされません。私たちの苦しみの中に神を招き入れるなら、神は私たちをより強く、より良いものへと変えてくださいます。そしてそれは私たちが降伏するときにのみ起こります。試練に降伏するのではなく(そうすると絶望になります)、神に降伏するのです。これはキリスト教入門レベルのような簡単なことではありません。大学院レベルの難しさの信仰が必要です。私は今でもこのことに取り組んでいます。最後に自分自身に正直になり、「神よ、私にはできます。でもあなたの助けなしにはできません」と言う瞬間です。


苦難に降伏するのではなく、主に降伏すること。これこそまさにペトロが私たちに望む姿です。

要の石の上に立つこと。このシリーズの初期に、イエスは要の石であると話したのを思い出してください。でも私は、重荷を支える石という表現の方が好きです。私たちが主と共に歩むとき、私たちが負う重荷のほとんどを主が負ってくださるからです。

だからこそイエスは、反直感的なことを言うことができるのです。反直感的(counterintuitive)というのは、最初は理解できなくても、後になって理解できるという意味の言葉です。


イエスは言われました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28-30)。


これは一見意味をなさないように思えます。重荷を負って疲れている時、ほしいと思うのはもう一つ別のくびきだからです。しかし、主イエスとくびきを共にすると、主が重い部分を引き受けてくださるのだと気づけば、意味が通じます。そして主はあなたを導いてくださいます。死の陰の谷を通る時でさえ。主を信頼するならば、主は導いてくださいます。問題は、私たちの多くが主を信頼していないことです。人や世に失望してきたので、その不信感を神にまで投影してしまうのです。私もそうでした。


中学生の時、何度もいじめに遭いました。喧嘩もしました。誰も私のことを知らない高校に転校し、やり直すことができたのは幸運でした。しかし新しい学校でも、私は自分を信用できませんでした。新しい同級生が、中学のときのように私をいじめることはない、と信じるまでに時間がかかりました。級友を信頼することを学ばなければなりませんでした。

ちょうど今週、同僚のある先生が、前の飼い主からひどい虐待を受けていた犬を保護施設から引き取ったと話してくれました。今その先生は、犬に安全であること、愛されていること、もう前のようにひどい目には遭わないことを毎日教えています。それはイエスが私たちにしてくださっていることです。イエスは優しく、忍耐強く私たちに思い出させてくださいます。「あなたはもう安全だ。あなたは私のもの。私を信頼しなさい」と。


もし、イエスに重荷を支えてもらわずに生きようとするなら、そしてイエスという要の石なしで人生を築こうとするなら、私たちは崩壊します。しかし、イエスを信頼するなら、たとえ人生が困難な状態になったとしても(人生は困難になるものです)、イエスが私たちを支えてくださいます。それがローマの信徒への手紙 8:28の約束の根底にあるものです。


「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ8:28)。


その御計画とは複雑なものではなく、ただイエスを信頼することです。イエスにあなたの人生を築くのです。

ペトロはこの手紙全体を通して、聖なる生活を送るよう私たちを励ましています。聖なるという言葉はよく使われますが、思い出してください。聖なるとは、区別されたものです。お気に入りの額縁や最高級の食器のようなものです。普段使うものとは区別され、特別な場面でのみ使う大事なものです。ペトロもそのように私たちに求めています。単に世の中で生きていくだけでなく、イエスを反映する生き方をすることです。神との関係を特別なものとして、区別してください。神もあなたを特別なものとして見ているからです。


手紙の終わりで、ペトロは一つの力強い言葉で要約しています。Stand(立つ。踏みとどまる。持ちこたえる)。

Stand firm(堅く立ちなさい。信仰にしっかり踏みとどまりなさい)。

主に堅く立ちなさい。

主の約束に堅く立ちなさい。

主の愛と恵みに堅く立ちなさい。

洗礼式で誓ったことに堅く立ちなさい。


堅く立つ。信仰に踏みとどまる。私たちは意志の力がそれほど強くないのを知っています。私たちは毎朝新しくされる必要があり、この新しさがなければ私たちは古くなってしまいます。哀歌3章は私たちに、「主の慈しみは決して絶えない。 主の憐れみは決して尽きない。 それは朝ごとに新たになる。 あなたの真実はそれほど深い」(哀歌 3:22-23)と語っています。


ペトロが手紙を書いた相手は追放された人々でした。社会になじめない人々。信仰のために目立つ人々。世間から変わっていると思われている人々。正直に言うと、私たちは教会が世間から変なふうに見られないようがんばりすぎていると思うことがあります。YouTubeに出てくる現代風の牧師は、流行に敏感でかっこよく、洗練されています。まるで「私のようになりなさい」と言っているかのようです。しかし福音が伝えているのは、「私(牧師)のようになりなさい」ではなく、「イエスに引き寄せられなさい。(そうすればあなたも変人になるかもしれないけれど)」というものです。パウロはⅠコリント4:10で、キリストのために喜んで愚か者になると言っています。パウロは人々が何と言おうが気にせず、神にどう思われるかを気にかけました。


おそらく私たちは変わっているのでしょうが、最も良い意味で変わっているのです。ナンバーワンに気を配らなければならない世の中で、私たちはお互いに気を配るよう召されているからです。思いやりをもち、愛し、イエスを反映するよう召されています。もしそれに従っていない教会があったら、別の教会に行ってください。


ペトロの手紙は人をがっかりさせるものではなく、現実を書いています。苦難を避けるための方程式ではなく、もっと良いもの、つまり苦難を突き進む道を与えてくれます。成長するための道。耐え忍ぶための道。忠実であり続けるための道。レースを完走するための道です。パウロはフィリピの信徒への手紙3章で言っています。「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、 神が……お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピ3:13-14)。

どうすればそれができるのでしょうか。私たちは堅く立ちます。信仰において。恵みにおいて。イエスにおいて。


羊飼いたちへ、そして私たち全員へ

ペトロは手紙の5章を教会の指導者たち、牧師や羊飼いたちへの言葉で始めています。

ペトロは同じ羊飼いとして、指導者たちに思いやりの心を持つようにと言っています。本当の思いやりです。もし牧師があなたを気にかけないなら、その人は牧師であるべきではありません。イエスはそのような種類の指導者を「雇い人」(ヨハネ 10:12)と呼んでいます。映画「風と共に去りぬ」に、「正直言って、君のことなんてどうでもいい」という有名なセリフがあります。もしそういう態度の牧師がいたら、牧師として失格です。そういう人は話すのが上手かもしれませんが、牧師ではありません。


二つ目に、指導者は仕えるべきであり、仕えられるべきではないとペトロは言っています。現代のように牧師が有名人になり、ミニストリーがプラットフォームや特権を持つ時代において、これは厳しい言葉です。しかしペトロは、指導者というのはブランドではなく犠牲だと言います。


そして三つ目に、指導者には自信に満ちた謙遜が必要です。神の召命に対する自信と、すべての答えを持っているわけではない謙遜です。私は確かにすべての答えを持っていません。しかしプライドは忍び込んできます。聖書に明確に書いてあります。転落する前にはプライドがあると。


ペトロが水の上を歩いた話を覚えていますか。彼は力強く歩き始めた後、自分の力で歩けると思い、イエスから目を離した瞬間に水に沈みました。プライドを持つとこうなります。プライドは私たちをだまし、自分でできると思わせます。しかし、自分自身に焦点を当てた瞬間に、私たちは沈み始めます。幸いだったのはイエスがそこにおられて、ペトロを引き上げてくださったことです。それはペテロが何度も経験した恵みであり、私も何度も経験しました。みなさん、神の恵みを受け入れてください。


私は、「主よ、あなたから目を離さないでいるように私を助けてください」と祈ります。

そして次のような約束があります。羊飼いの長が現れるとき、彼は忠実な羊飼いたちに、色あせない栄光の冠を与えてくださいます。冠は宝石ではなく、私たち皆が聞きたいと切望する、「よくやった、忠実なしもべよ」という言葉です。。


すべての人への謙遜

5節で、ペトロは対象を牧師以外の人にも広げています。

「同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、 『神は、高慢な者を敵とし、 謙遜な者には恵みをお与えになる』 からです」(Ⅰペトロ5:5)。

謙遜は自然にできるものではありません。もう一度言いますが、私が言う謙遜は、自尊心が低いことではありません。聖書的な謙遜とは、神との関係において自分が何者であるかを知っていることです。あなたは自分の長所と短所を知っていますが、それ以上に、自分が完璧でなくても愛されていることを知っています。謙遜は教えを聞く素直な心に根ざしています。プライドが「私たちは理解しており、学ぶべきことは何もない」と告げるのに対し、謙遜は、常に聖霊が私たちに教えてくれるのを受け入れます。

一方、低い自尊心は傷ついた心に根ざしており、自分は愛される価値がなく、他の人の愛や神の愛でさえ受け取る価値が自分にはないという誤った考えを信じています。自尊心が低い人は、常に行いによってあなたの愛を勝ち取ろうとします。しかし、彼らが愛を勝ち取ろうとするのをやめてしまうと、その行いは重荷になります。


謙遜は自然にできることではありません。私たちは謙遜を身にまとわなければなりません。ペトロは身に着ける衣服のように言っています。謙遜は選択です。毎日、または毎時間、謙遜を選択しなければなりません。繰り返しますが、謙遜は自然に身に着くものではなく、選択しなければならないのです。


以前、説教の後で、ある男性が私にこう言いました。「今日の説教は好きではなかったけど、私に必要な説教でした。ありがとう」。これが謙遜です。これが聖霊の働き方です。


ペトロは警告しています。「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」(Ⅰペトロ5:8)。

敵は子猫ではなくライオンです。大きなうなり声で威嚇しています。悪魔の目的は、あなたの平和、あなたの希望、あなたの信仰をむさぼり食うことです。ペトロは私たちを無防備なままにはせず、「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」(Ⅰペトロ5:9)と言っています。


ですから受け身ではなく、踏みとどまるのです。紅海の出来事と同じです。 

モーセ:「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい」(出エジプト記14:13)。

ダビデ:「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、……わたしを守ってくださるにちがいありません」(サムエル上17:37)。

これが信仰に堅く立つという意味です。 


それは今の時代ではどのような時でしょうか。

  • 不安が高まったら、それを主にゆだねなさい。

  • 疑念が忍び寄ったら、主の約束を信じなさい。

  • 誘惑がやって来たら、受け入れずに戸口を閉めなさい。

  • 孤独を感じたら、世界中の信者があなたと共にいることを思い出しなさい。


神の回復の約束

そして神の約束があります。私の好きな部分です。

「しかし、あらゆる恵みの源である神……が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」(Ⅰペトロ5:10)。

「あらゆる恵み」とは、あなたが必要とするすべての恵みです。

主は、

  • 壊れたものを回復させます。

  • 弱いものを強くします。

  • あなたの足場を確立させます。

  • そしてあなたを堅固にします。


あなたは無理をする必要はありません。偽る必要もありません。主がそれをなさるのです。ペトロは最後にこう言っています。「力が世々限りなく神にありますように、アーメン」(5:11)。なぜなら結局のところ、栄光はそこに行くからです。


次のステップ

では私たちは、ペトロの手紙一から何を学びましたか。

  • 神に対して、また私たちのお互いに対して、謙遜を身にまとう。

  • 信仰に堅く立つ。敵は大声でわめくが、神はもっと強い。

  • 主の約束に安らぐ。主はあなたを回復させ、強くしてくださる。


あなたは信仰によってここまで来ました。ここであきらめないでください。神はあなたと共におられ、あなたのためにおられます。そして神が始められたことを、神が完成させてくださるでしょう。


では、最後の質問をあなたの祈りに入れてください。

あなたの人生で、神の力強い御手の下にへりくだり、不安を神にゆだねる必要がある領域はどこですか。


祈りましょう。




話し合いのポイント 


1.「シモン・ペトロが答えた。『主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます』」(ヨハネ6:68)という聖書箇所を踏まえて、あなたが人生で他にどこにも行く場所がないと感じた経験について話し合ってみましょう。その時、あなたはどのように希望を見つけ、イエスに立ち返ることができましたか。


2. 説教は、謙遜を「自然なことではない」と言っていました。あなたが今までに謙遜を実践するのが難しいと感じたのは、どんな時でしたか。その時、どのように謙遜を「身に着ける」のを選びましたか。どのようにしてそうすることができましたか。


3.「あらゆる恵みの神」という言葉は、あなた自身に当てはめるとどんな意味を持ちますか。神は、壊れたものを回復させ、弱いものを強くし、あなたの足場を固め、あなたを強固な者としてくださる、という約束があります。この約束は、あなたの人生のどんな時に当てはまりますか。


4. 牧師がイエスを、「重荷を支える石」と表現した部分を振り返ってみましょう。日常生活の中で、イエスに「重い部分」をゆだねることができた具体的な例について話し合いましょう。イエスを信頼するのが困難に思われたことがありましたか。それをどのように乗り越えましたか。


5. ペトロは私たちに、「信仰に堅く立つ。踏みとどまる」ことを求めています。現代の私たちの生活で、不安、疑念、誘惑に直面したときに、「信仰に堅く立つ」とは具体的にどのような行動を意味すると思いますか。また、世界中の他の信者と共に「堅く立つ」ことの重要性は何だと思いますか。それはあなたにとってどのような意味がありますか。



 
 
 

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