心の戦いと向き合う
- 5月25日
- 読了時間: 10分

「心の戦いと向き合う」
ペテロの第一の手紙 1:13–25
説教者:Mark Bartch牧師
神戸ユニオン教会
2025年5月25日
私たちは皆、霊的な戦いに直面したことがあります。思いがけず襲ってくる誘惑、信仰を試される瞬間、あるいは、ただ日々の生活そのものが戦いだという人もいるでしょう。戦いは「外にある」と感じがちですが、ペテロの手紙第一1章13節で、ペテロは私たちに真の戦場が「心(思い)」であることを教えてくれます。
「だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みをひたすら待ち望みなさい。」
この中の「身を慎み(sober-minded)」という言葉が特に目を引きます。ペテロは私たちに暗く沈んだり、喜びを失ったりしなさいと言っているのではありません。むしろ「冷静で明晰な心を持ちなさい」と教えているのです。お酒が私たちの判断力を鈍らせるように、心を守らなければ、敵の攻撃を受けやすくなってしまいます。「身を慎む」とは、感情や世の中の騒がしさに流されるのではなく、神の真理を通して人生を見ることです。この戦いの出発点は身体ではなく、「心(思い)」です。否定的な思いが少しずつ蓄積されると、やがて私たちの人生全体を溢れさせてしまいます。だからこそ、ペテロの語る警告は緊急性があります—「心を整えよ」。信仰の歩みは簡単ではありません。それは戦いです。まるでフットボールの試合のようなものです。
私は以前、安田広重さんと一緒にタッチフットボールのコーチをしていました。ある試合で、補欠の選手が「どうせ出番はないだろう」と思って、友達としゃべったり、チアリーダーを見ていたりしていたのです。私は彼に言いました。「試合に集中しろ!」 彼は「僕、出ないと思いますよ」と言いました。でもその瞬間、選手が怪我をして、コーチがその子の名前を呼んだのです。彼は私に「どうすればいいですか?」と聞いてきました。私は「フィールドに出ろ」と言いました。 イエスは言われました。「もし強盗がいつ来るかを知っていたら、備えていただろう」(ルカ12:39)。
ペテロが語る救いとは、単なる一回限りの出来事ではなく、「心から始まる旅」です。妥協は心から始まり、誘惑は心に根を下ろし、疑いも心で成長します。私たちのアイデンティティと希望は、真理にしっかり根ざすか、あるいは偽りによって歪められるかのどちらかです。
そしてペテロはこのような印象的な言葉を使います。「心を引き締めて行動に備えなさい。」 ここで使われているギリシャ語は直訳すると、「あなたの心の腰を締めなさい(gird up the loins of your mind)」という意味です。
昔の人々は、走ったり戦ったりする時、長い衣を帯に巻き上げて動きやすくしていました。ペテロは「それを心でやりなさい」と言っているのです。心を整え、準備し、正しく保つ。それが真剣に生きることの始まりであり、心に何を思い巡らすかが大きな鍵になります。パウロも第二コリント10章5節でこう語っています:「すべての思いをとりこにして、キリストに従わせる。」 私たちがそうしなければ、破壊的な思考の道筋ができてしまいます。
しかし、良い知らせもあります。破壊的な思考回路をつくることができるように、神を敬う健全な思考回路も築くことができるのです!パウロはローマ12章2節でこう語ります:「この世に倣ってはいけません。むしろ、心を新たにすることで、変えていただきなさい。」 この「変えられる」ということは、単なる霊的なイメージではなく、私たちの脳の配線が実際に変わることを意味しています。霊的なことと身体的なことは深く結びついており、互いに影響し合っているのです。
人やこの世は、私たちの心を混乱させようとします。高校時代、ある女の子が私にダンスに誘ってほしいようなサインを出していました。私は思い切って誘ったのですが、彼女は回りに聞こえるような大きな声で「嫌だ」と言いました。恥ずかしくて仕方ありませんでした。その後、別の女の子に「友達として」ダンスを誘うと、最初の子がまた急に私に関心を持ち始めたのです。友達は言いました、「彼女はマインドゲーム(心の駆け引き)をしてるんだよ。」
その言葉が心に残りました。なぜなら、心の駆け引きをするのは人間だけではなく、この世全体もそうだからです。でも、イエスは違います。世が私たちを混乱させようとする時、主は私たちを御もとに呼び戻し、人生をシンプルにしてくださいます。
「あなたがたの『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。」
「わたしについて来なさい。」
イエスは私たちに言われました。「あなたがたは、世の承認を得る生き方をするか、それとも主の承認を得る生き方をするか、どちらかだ」と。 ペテロはこの考えを続けます:「従順な子どもとして、以前の無知(イエスを知らなかった頃)の時の欲望に従ってはいけません。むしろ、あなたがたを召された方が聖であるように、あなたがたもすべての行いにおいて聖でありなさい。」
ここではっきりさせましょう。聖なる者であるとは、完璧になることではありません。私たちの中で完璧な人は一人もいません。私たちは皆、欠陥があり、神の恵みを必要としています。「聖なる」と呼ばれるにふさわしいのは、ただ神お一人だけです。
ですからペテロが「聖であれ」と言ったとき、それは「神のようになれ」という意味ではありません。それは「区別された存在となれ」「異なる者となれ」という呼びかけです。世の中の流行に形作られるのではなく、神との関係によって形作られるように。
それはどこから始まるのでしょうか? 心(思い)からです。私たちが神とその御心に心を定めるとき、そこからすべてが始まるのです。実際の例が見たいなら、マタイの福音書4章で、イエスが誘惑に立ち向かう場面を見てください。サタンは聖書をねじ曲げて、イエスの心に揺さぶりをかけようとします。しかしイエスは、すぐに、はっきりと「ノー」と言って拒みます。
イエスが悪魔のゲームに付き合わなかったのなら、私たちも付き合うべきではありません。周りを見てください。世界はどんどん「同じ」になってきています。札幌から広島まで旅をしても、同じ食べ物を食べ、同じユニクロの服を着て、どの町でも同じ音楽が流れています。人々の考え方や行動までもが似ているように感じるかもしれません。しかしペテロは言います。「異なれ。聖なる者となれ。」
世の中が「やられる前にやれ!」と叫ぶとき、イエスは「右の頬を打たれたら左の頬も向けなさい」(マタイ5:39)と言います。 世が「絶対に許すな、忘れるな」と言うとき、イエスは「七回どころか七の七十倍でも許しなさい」(マタイ18:22)と優しく語ります。
世の中が「自分のことだけを考えろ!」と叫ぶとき、イエスは「あなたがたのうちで一番偉い者は、仕える者になりなさい」(マタイ23:11)と言います。 そして世が「やり返せ!」と要求するとき、福音は「悪に勝つには善をもってしなさい」(ローマ12:21)と語るのです。これらはすべて聖書に書かれています。
少し昔の表現になりますが、私たちは「わかるか?」とよく言いました。つまり、わかりますか? 派手に見せることや、偽りの姿を見せることが目的ではありません。心が別の王国にチューニングされているからこそ、本質的に「異なる存在」なのです。そしてその王国の王は、世とはまったく違う価値観を持っておられるのです。
ペテロは、このことがなぜそれほど重要なのかをこう語っています:「あなたがたは贖われたのです… 銀や金のような朽ちるものではなく、キリストの尊い血によって。」 あなたは代価を払って買い取られたのです。それはどういう意味でしょう? それはあなたの思い、考え、決断が、もうあなたのものだけではないということです。それらは、あなたのために自らのいのちを差し出された方に属するものなのです。
この深い真実は、私たちの心が神の御心に従って変えられたいという強い願いを燃え立たせるべきです。この「思いの戦い」は極めて重要です。なぜなら、それはキリストの驚くべき犠牲をどのように尊ぶかに直結しているからです。
マルティン・ルターはこんな言葉を残しています:「鳥が頭上を飛ぶのを止めることはできないが、髪に巣を作るのを止めることはできる。」 このイメージを思い浮かべてください。ふとした否定的な思いや、小さな心配事 ― それが頭に浮かぶのを完全に止めることはできません。でも、それが心の中に根を張り、「疑いや不安の巣」を作るのは防ぐことができるのです。
嘘を見抜いたら、早いうちに止めましょう。居座らせないでください。心の中で育てないでください。なぜなら、嘘というものは小さな種のようなもので、すぐに成長し、真実を押しのけてしまうのです。そしてその嘘は、心の中を支配し、混乱させ、霊的に酔ったような状態に陥らせます。そして、そうなると希望を奪われやすくなります。希望が失われると、信仰も弱まります。信仰が弱くなると、神に従うこと ― 喜んで「はい」と応答すること ― が重荷となり、歓迎されないものになってしまいます。
旧約聖書から、思いを守らなかった結果がどれほど悲劇を生むかを示す実例が見たいなら、サムエル記下11章にある、ダビデとバト・シェバの関係を見てください。すべては「視線」から始まりました。最初の誘惑をすぐに退けなかったのです。もしかするとダビデは「これまで国のために尽くしてきた自分にはこのくらいの報いがあってもいい」と思ったのかもしれません。そして多くの牧師がこの悪魔の罠に落ちてしまいました。その結果、大きな罪と苦しみをもたらしたのです。ダビデは「鳥が飛ぶだけ」で済まさず、人生の中に破壊的な巣を作らせてしまいました。
ペテロはこう続けます:「あなたがたは真理に従うことによって心をきよめ、偽りのない兄弟愛を持つようになりました。ですから、きよい心から熱心に互いに愛し合いなさい。」
ここでの流れを見てください。ペテロは次のように示しています:
思いを整える。行動の準備をする。
聖なる者となる。区別され、異なる者となる。
神を畏れ敬う心で生きる。その主権を認める。
心から愛する。その愛を外に向かって流す。
なぜこの順番が大事なのか? それは、神とその真理に思いを向けることで、美しい魂が育まれるからです。そしてその魂は、真実でお互いへの心からの愛へと開かれていきます。私たちの思いが日々神の御霊と御言葉によって新しくされていくとき、心も柔らかくなり、神が私たちを愛されたように他の人を愛することができるようになるのです。聖なる者となり、世が押し付ける自己中心的な考えから離れることで、自分自身を超えて他者を犠牲的に愛することができるのです。
もしあなたの思いが、恐れ、偽り、誇り、または恥によって混乱しているなら、心から他者を愛することはできません。でも、思いが新たにされていくとき、心は柔らかくなり、あなたに与えられた新しい人生を本当に生きることができるようになります。
「聖である」とは、ただ線を引いて世と自分を分けることではありません。神の愛 ― 犠牲的で、純粋で、意図的な愛 ― に生きることなのです。そしてその愛は、心(思い)から始まり、やがて心を通して外へと流れていきます。
ペテロは最後にこう結びます:「すべての人は草のようで…しかし主の言葉は永遠に変わることがない。」 私たちの思い、感情、願い ― それらはみな、枯れてしまう草のように一時的なものです。しかし神の御言葉は、永遠に変わらず、信頼できるものです。この「思いの戦い」に勝ちたいと本気で願うなら、私たちは「永遠に残るもの」で心を満たさなければなりません。すなわち、聖書、真理、そして恵みです。
今週、心の戦場にしっかり立つことを意識しましょう。思いを整えましょう。なぜなら、私たちは皆、自分自身の人生におけるスターティングメンバーであり、他者の人生にも大きな影響を与える存在なのです。
祈りましょう。
ディスカッション用の質問
1. 「行動のために心を準備する」とは、日常生活においてどういう意味を持つのでしょうか?
2. ペテロは信者に「冷静であること」を求めています。私たちの心が霊的に「曇る」原因にはどのようなものがあり、騒がしい世界の中でどのように明晰さを保つことができるのでしょうか?
3.世の中、サタン、あるいは自分自身による「マインドゲーム」は、信仰、アイデンティティ、人間関係にどのような影響を与えるのでしょうか?
4.ペテロは私たちに「聖なる者」または「特別な存在」となるよう求めています。それは心の中でどのように始まり、実際の生活や他者への愛においてどのように表れるのでしょうか?
5.ペテロは、新たにされた心が深く誠実な愛へとつながると述べています。思考を守り、変えていくことが、より健全な人間関係へとどのようにつながるのでしょうか?





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