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彼の言うことを行いなさい

  • 7月13日
  • 読了時間: 13分

彼の言うことを行いなさい

ヨハネによる福音書 2:1-11

説教者:Mark Bartsch牧師

神戸ユニオン教会

2025年7月13日


今日のヨハネによる福音書にあるカナの婚礼の物語は、主イエスの働きの中で私のお気に入りの一つです。喜びと豊かで、美しく神秘に満ちた象徴的な出来事です。表面的には婚礼の祝いが舞台となっていますが、この物語は単に婚礼についてだけではありません。もっと深い、私達一人ひとりが「どうすれば神と真につながり、心から神を信頼できるのか。」という格闘です。人生を揺るがすような大きな出来事だけでなく、日々の些細なことにおいてです。私達の多くは、日々のありふれた問題に直面したとき、あらゆる手を尽くし、人間はできる限りをやりつくしてから、ようやく主イエスに祈りを捧げます。多くの場合、あらゆる選択肢を試し、もう後がないという状況になって初めて、私達は神に目を向けていませんか。私の学校の生徒のことを思い出します。彼は英検2級のテストに合格しようと奮闘していました。高校1年生の時に準2級には合格しましたが、その後、大学入学に必要だった2級のテストに6回も不合格になりました。彼はひどく落胆していました。3年生になり、残されたチャンスはあと1回。もしまた不合格になれば、希望する大学には入れません。そんな時、彼は私のところに来て言いました。「Bartsch先生、どうか僕のために祈ってください。前回のような、ベストを尽くせるようにという祈りではなく、合格できるように祈ってください。」私はそうしました。主は恵み深く、彼は1点差で合格しました。たった1つの問題が彼の未来を変えたのです。もちろん彼は私に感謝しましたが、私はすぐに「神様に感謝しよう」と伝えました。テスト前にはあれほど熱心に祈った彼も、合格した後はそうでもありませんでした。それでも、彼の人生に信仰の種がしっかりと蒔かれたことを願っています。


祈りは「紅海の瞬間」だけのものではない                                                この箇所は、「エジプト軍に追われ、紅海を背にする」といった切羽詰まった状況の物語ではありません。福音書全体を通して、私達は主イエスが人々の最も絶望的な状況—病気、悲しみ、さらには悪霊を追い出したりした時に現れるのをよく目にします。人々は、子どもが死にかかっているとき、目が見えないとき、出血しているとき、あるいは霊的に苦しめられているときに、主イエスに叫び求めます。そして、そのような生死にかかわる状況において、主イエスはあわれみと力をもって応えられます。私達は、自分自身や愛する人のために、世界が崩壊しそうなときに主イエスのところに行くことを知っています。しかし、今日の箇所は異なります。医療上の緊急事態ではありません。悪霊を追い出す必要もありません。癒しを求める絶望的な叫びもありません。それは結婚式です。楽しいパーティー。お祝いです!そして問題はワインが足りなくなったこと。それほど天地がひっくり返るような事態ではありません。私達にとっては、それはささいな事に聞こえるかもしれません。せっかくの楽しい日に、ちょっとした気まずいアクシデントといったところでしょうか。「だから何。代わりに何か別のものを出せばいいじゃない。もしかしたら二日酔いにならなくて済むかもね。ケーキがなくなったわけじゃないんだから、それはちょっと慌てるけれどね!」と考えるかもしれません。しかし、当時の文化では、結婚式でワインがなくなることは深刻な社会的失敗でした。それは単なる婚礼のミスではなく、花婿の家族に公衆の面前で恥をかかせ、この若い夫婦の将来の結婚に長い影を落とす可能性がありました。結婚式は根本的にもてなしと名誉に関わるものであり、ワインは祝いの中心でした。ちょうど過越祭のセデル(儀式的な食事)の祝宴でワインが中心であるようにです。ワインがなくなるということは、きちんと準備ができていなかったことを意味しています。それは、結婚生活の始まりを不名誉と深い恥で刻むことになりかねませんでした。そして、危機でも悲劇でもない、その静かな社会的な困惑の瞬間に、主イエスは介入されます。彼が次に行ったこと、水をワインに変えるという行為は、単なる供給の奇跡ではありません。それは、彼が誰であるかの啓示です。しるし。人生の嵐の中だけでなく、ありふれた、取るに足らないように思える失望の中においても、彼を信頼するよう促す静かで力強い招きなのです。


主イエスの静かな力                                                                    しかし、この物語で本当に心を掴まれるのは、主イエスがご自身の最初の公の奇跡を行われたのがこの場所だということです。そして、それは真の意味で公の奇跡ではありませんよね。彼の弟子たち、召使たち、そして母だけがそのことを知っていました。それはシナゴグ(会堂)でもなければ、荒れ狂う嵐の中、劇的な復活を伴う葬儀でもありません。そうではなく、婚礼の披露宴で…静かに家族を恥と困惑から救ったのです。そして主イエスは決してその功績を主張されませんでした。なぜなら、そうすればスポットライトが新婚夫婦から彼へと移ってしまうからです。そして、それは彼らの日だったのです。なぜ彼はそうしたのでしょうか。彼は気にかけているからです。彼は小さなこと、静かな困惑、神に持ち出すには取るに足らないように感じる必要性さえも気にかけているのです。そして、この物語は単にワインについてだけではありません—それは信頼についてです。私達がどのように自分の必要や懸念を主イエスに持ち出し、そして身を引いて彼を主とするかについてなのです。


マリアの信頼の模範                                      マリアの信頼の模範。主イエスの母であるマリア(新約聖書には多くのマリアがいますが)は、この信頼を見事に示しています。彼女は主イエスを急がせません。計画を指示したり、解決策を提案したりもしません。彼女はただ懸念を彼に持ち出し、そして身を引きます。「彼らにはもうワインがありません。」当然の疑問が湧きます。マリアはどのようにしてワインがなくなったことを知ったのでしょうか。多くの人は、マリアが花婿の家族と親密な関係にあった、おそらく花婿の母の親友か親戚だったと推測しています。なぜなら、1年間の婚約に続く伝統的な6日間の婚礼を主催するのは花婿の家族の責任だったからです。いずれにせよ、マリアはこの家族に何が起こるかを深く気にかけており、どこに懸念を持っていくべきかを正確に知っていました。「彼らにはもうワインがありません。」それだけです。要求でも質問でもなく、単なる事実の陳述です。彼女はそれだけしか言いません。嘆願もなければ、細かく指示することもありません。思い出してください。マリアとヨセフは、ベツレヘムへ、そしてエジプトへと急いで移動しなければならなかったため、自分たちの結婚式では共同体の祝福を十分に受けていなかった可能性が非常に高いのです。人によっては、親の祝福や重要な人物からの後押しなど、人生で重要な応援を受けられなかったときに、苦々しくなることがあります。口に出さなくても、自分が受けられなかったような祝福を他の誰も受けるべきではないかのように振る舞うかもしれません。しかし、マリアのように、自分自身が重要な祝福を受けられなかったにもかかわらず、他の人々がその祝福を受けられるようにたゆまぬ努力をする人もいます。言うならば、マリアのようになりなさい。そして、主イエスが「婦人よ、私とあなたに何の関係があるのですか。私の時はまだ来ていません」と言って、彼女を突き放すように見えたときでさえ、彼女は彼と議論しません。彼女は「あなたがいるために私が何を犠牲にしたか知らないでしょう。」とは言いません。いいえ、彼女は何も要求しません。彼に後ろめたさを抱かせて行動させようともしません。代わりに、彼女はただ召使いたちに振り返って言いました。「彼があなたがたに言うことは、何でも行いなさい。」マリアはなぜこれほど確信を持って言えたのでしょうか。それは、彼女が信頼していたからです。彼女は、主イエスがこの夫婦にとって最善のことをしてくれると知っていました。彼が具体的に何をしようとしているのかは知らなかったとしてもです。思い出してください、彼女は主イエスに具体的なことを何も頼まなかったのです。それが信仰です。主イエスが行動できると信じるだけでなく、彼がどのように、そしていつ行動するかを信頼することです。彼のやり方がすぐに私達には理解できなくても、彼を主とし信頼することです。この点において、マリアはサムエル記上1章のハンナの物語に見られる信頼を反映しています。ハンナは祈りの中で神に悲しみを注ぎ出し、子どもを求めました。彼女は神の前で非常に取り乱していたため、祭司エリは彼女が酔っていると思い、彼女を叱責しました。誤解が解け、エリの祝福を得た後、彼女は平安のうちに去っていきました。主がしたいと望むことを主が行うと信頼して。ヘブライ人への手紙11章1節が私達に思い出させるように、「信仰は、望んでいる事柄を確信し、見えない事柄を確かなものとすることです」。私はあなたに、偉大な二人であるマリアやハンナのような信仰を持つことを求めているのではありません。ただ、からし種ほどの小さな信仰を持ち、主イエスがそのレベルの信仰でどのように働くことができるかを見てほしいだけなのです。


儀式から喜びへ                                        そして奇跡が起こります—静かで控えめ、そして深く象徴的です。主イエスは召使いたちに、それぞれ20から30ガロン入る大きな石の水がめを6つ水で満たすように言いました。これらの水がめは単なる容器ではありませんでした。ヨハネは、それが「清めの儀式のために」使われていたと記しています。それは律法に定められたユダヤ人の清めのシステムの一部でした(出エジプト記30:17-21、レビ記11:32-36参照)。これらの水がめは、食事の前に手や皿、足を洗うなど、外的な清めのための道具でした。重要なことに、これらの特定の石の水がめは清めの儀式のために選ばれました。なぜなら、陶器とは異なり、石は儀式的な不純物の影響を受けないと見なされていたからです。土器は汚れる可能性があり、壊さなければなりませんでしたが、石器は純粋なままであったため、ユダヤの習慣が求める頻繁で厳格な洗い物には理想的でした。この家にそれらの水がめがあったことは、婚礼を主催する家族の敬虔さと律法への順守を示しています。しかし今、主イエスはそれらを再利用します。もしあなたが主イエスを受け入れるなら、彼がサウルを偉大な伝道者パウロに変えたように、あなたをも再利用することができます。主イエスはそれらを捨て去ったり、律法を批判したりはしません。彼は律法を廃止するためではなく、成就するために来たのです(マタイによる福音書5:17)。イザヤがメシアについて預言したように、「見よ、わたしは新しいことをする。今、それは湧き出ている。あなたたちはそれを悟らないのか」(イザヤ書43:19)。これらの水がめは—かつては儀式の象徴でしたが—今は祝祭の器となっています。水はワインになります。普通が非凡になります。古いものが成就され、新しくなります。そして、これはただのワインではありません—宴会の係の者が宣言するように、最高のワインなのです。それも旧約聖書の約束を反映しています。「万軍の主は、この山で万民のために、脂の多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多い脂身と、よくこされたぶどう酒の宴会を開かれる。」イザヤ書25:6 主イエスは、メシアの宴会が始まったことを明確なしるしとして示しているのです。彼は神の約束の成就です。彼は新しいワインをもたらす者であり、神の臨在と祝福の新時代を告げています。また、「新しいぶどう酒を古い革袋に入れることはできない」という聖書の原則もあります。私達にとって、それは主イエスがあなたのために持っておられる新しいワインを真に受け取るためには、新しく生まれ変わらなければならないことを意味します。彼の新しい契約を受け入れるために、あなた自身の存在そのものが変革されることなのです。そして、主イエスがこれらすべてをいかに静かに行われたかに注目してください。彼は自分自身が注目の的にならないのです。彼は舞台に上がりません。演説もしません。何が起こったかを知っていたのは、マリア、召使いたち、そして彼の弟子たちというごく少数の人々だけでした。なぜか?主イエスは誇るためではなく、祝福するために来られたからです。彼は、それが新郎新婦の日であることによって、彼らの喜びを尊重します。彼は自分自身にスポットライトを移しません。そしてそうすることによって、ゼファニヤ書に見る神の御心を反映しているのです。「あなたの神、主はあなたと共におられる…彼はあなたを大いに喜び、その愛によってあなたを責めることなく、歌をもってあなたのことを喜ぶであろう。」—ゼファニヤ書3:17。なんて優しい姿でしょう!紅海を分け隔てた同じ神が、静かに婚礼を喜ばれています。シナイ山から雷鳴を轟かせた同じ神が、今、小さな町の祝いの場におられ、水をワインに変えているのです。


これが私達にとって何を意味するのか?                             では、これが今日私達にとって何を意味するのでしょうか。それは、私達が主イエスを、紅海の瞬間、絶望的な、劇的な状況だけでなく、私達の小さな必要、静かな羞恥、人知れぬ重荷においても信頼できるということです。それは、私達が自分の欠乏を彼に持ち出し—2列王記4章で最後の油を注いだやもめが預言者エリシャの言葉を信頼したように、主イエスがそれを美しく豊かなものへと増し加えてくださる、という意味です。それは、私達が主イエスに空の壺—失敗した計画、満たされなかった期待、馴れ合いの日課を差し出すとき、彼がそれらを何か新しいもの、何か活気あるもの、私達が想像できるはるかに優れたもので満たすことができる、という意味です。そして何よりも重要なのは、主イエスを信頼するということは、結果を委ねることだということです。彼が時を選ぶことを許すこと。彼が方法を選ぶことを許すこと。彼の奇跡を細かく指示しようとするのではなく、あらゆる詳細において彼を主とすることです。ですから、マリアの模範に倣いましょう。あなたの懸念を主イエスに持ち出しなさい。それが大きくても小さくても、彼のもとに置きなさい。そして身を引いて、「彼があなたがたに言うことは、何でも行いなさい。」と言いましょう。奇跡を細かく指示しないでください。タイミングを急がないでください。彼の力を、あなたの期待や、彼がどう行動すべきかというあなたの先入観で制限しないでください。彼があなたの人生の空っぽな場所、あなたの古い石の壺、あなたの限界、あなたの満たされていない願望を取り、何か新しいもの、何か非凡なもので満たしてくださるようにしましょう。あなたの最大の必要だけでなく、隠された必要も満たしてくださる主であられますように。普通に見えるものを非凡なものに変えてくださるように。彼は今でも水をワインに変えます。彼は今でも静かな方法で奇跡を行います。彼は今でもその日を救います。一度に一つの壺を。あなたは今日、あなたの「空の壺」を彼に委ねる準備ができていますか?

祈りましょう。



考えてみましょう。

  1. イエス様が最初の公の奇跡を行うのに、なぜ結婚式のような小さくて静かな行事を選ばれたと思いますか。

補足:このことは、神様のご性質と、私たちの日常生活において神様がどのように働かれるかについて、私達に何を教えてくれますか。


  1. 「主が言われることは何でもしなさい」 というマリヤの言葉は、信頼と従順 について私達に何を教えていますか。

補足:神様が何をなさるか分からない状況に直面した時、私達はどのようにマリアの例を適用できますか。


  1. あなたの生活の中で、神様が変えたいと思われるような 「普通の水がめ 」は何ですか。

補足:そのようなものを信仰を持って主イエスに捧げるとは、どのようなことでしょうか。


  1. 些細な失望や静かな恥ずかしさに対して、私たちは通常どのように反応しますか。

補足:なぜ、大きな危機よりも、そのような小さなことを神様に捧げる方が難しいことがあるのでしょうか。




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