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二つの震動

  • 1 日前
  • 読了時間: 10分

二つの震動」(The Two Quakes)

マタイによる福音書 27:57–66、28:1–10

神戸ユニオン教会 ― 2026年4月5日

説教者:Mark Bartsch牧師



歴史は地球の動きによって定義されます。私たちは地面が強固であることを前提に街を築き、生活を送っていますが、実際はそうではないと知っています。マタイによる福音書の中に、世界を何よりも激動させた二つの瞬間がありました。それは単なる地質学的な出来事ではなく、霊的な宣言でした。これを理解するためには、地が開くまでの一週間に目を向ける必要があります。それは大声で始まり、やがて打ち砕かれることになる沈黙で終わりました。


先週の日曜日の礼拝では、私たちは主への賛美を歌い集い、教会の空気は熱気に満ちていました。ロイ兄がショファール(角笛)を吹き、私たちはイエスのエルサレム入城を祝って踊りました。その日、人々は木の枝を切って道に敷き、自分の服も道に敷いて叫びました。「ホサナ。いと高きところにホサナ」「主よ、私たちを救ってください」(マタイ 21:9)。


これを単なるパレードと勘違いしてはいけません。当時の人々は、ローマの鎖を断ち切ってくれる政治的な王を求めていました。自分たちを武装させ、ローマ軍団に立ち向かって行進させてくれるメシアを求めていました。人々は「外部の状況」が変わることを望んでいましたが、イエスは人々の「内なる現実」を変えるために来られました。イエスはカエサルを倒すためではなく、闇を打ち倒すために来られたのです。人々は民衆の革命を期待していましたが、イエスは魂の革命をもたらそうとしておられました。


その勢いは止まりませんでした。月曜日にイエスは宗教生活の中心である神殿に入りましたが、そこは商売する市場と化していました。犠牲の供え物のために法外な料金が請求され、貧しい人や外国人が神の名のもとに搾取されていました。イエスは提案をするとか委員会を組織するのではなく、即行動されました。重い机をひっくり返し、犠牲の動物たちを追い出し、憤って商人たちに言われました。「わたしの家は、祈りの家でなければならない。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。(ルカ19:46)。

イエスは父の家を取り戻されました。神を利用して利益を得ていた「宗教的」な盗人たちを追い出して、その一週間を始められました。古いシステム、つまり「自分に都合の良い宗教」が終わりを告げました。私たちの中にも、人生のいくつかの机をひっくり返して主の家を取り戻す必要のある人がいます。


火曜日は「権威」についてでした。宗教指導者たちは、税金や律法についての「ひっかけ問題」でイエスを罠にかけようとしました。イエスは弟子たちに警告されました。「目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたにはわからないからである」(マタイ 24:42)。イエスは、世界がひっくり返ろうとしていることに弟子たちを備えさせました。主に従うのは快適になるためではなく、王の再臨に備えて注意を怠らず、準備を整えておくことだと明確にされました。王が迎えに来られる時、私も備えができているようにと思います。


水曜日までに、不穏な影はさらに濃くなってきました。ローマ兵士やパリサイ人からではなく、イエスは友人から裏切りと拒絶に遭いました。銀貨30枚の価値は当時の一般的な奴隷の値段でしたが、ユダは「あの男をあなたたちに引き渡せば、いくらくれますか」(マタイ26:15)と言って、銀貨30枚でイエスを裏切る取引を成立させました。 これは身震いするような真実です。人間というのはイエスと同じ食卓につきながらも、キリストよりも金銭を愛する方を選んでしまうことがあります。そして、最も身近な弟子のペテロさえ、主を否定しました。彼は金銭のためでなく、自分の評判のためでした。友人でも家族でもない見ず知らずの他人の承認を得るために、ペテロは「そんな人は知らない」と誓いました(マタイ26:74)。


木曜日は準備の最後の夜でした。階上の部屋で、イエスは奉仕してもらうのではなく自ら人に奉仕しました。膝をつき、間もなく自分を見捨てることになる弟子たちの足を洗われました。ユダやペテロの足までも。そして「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ 13:34)という新しい掟を弟子たちに与えられました。

その後、ゲツセマネで、イエスは世の罪の重さと苦しみながら戦われました。逃げませんでした。汗が血のしずくのようになるまで祈られました。「わたしの願いではなく、御心が行われますように」(ルカ 22:42)。その間、祈りでイエスを支えるように言われていた弟子たちは眠ってしまっていました。次に兵士たちが現れ、ユダはイエスに接吻して、友人であり主である方を裏切りました。


金曜日:第一の震動

そして金曜日が来ました。「ホサナ」の叫びは、「十字架につけろ」(ルカ 23:21)という群衆の怒号に取って代わられました。ローマの兵士はイエスをあざけり、打ちのめし、ゴルゴタの地で木の梁に釘付けにしました。「『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた」(ルカ 23:33)。


日本では、地震は珍しいことではありません。アメリカ東海岸やカナダから来た私は、日本に来るまで地面が動くという経験がありませんでした。初めて地震を経験した時、私は震え上がりました。頑強だと信じていたものが足元で崩れる時、本能的な恐怖を感じます。自分でどうにもできないことに気づきます。私たちの多くがそれを経験してきました。それは興味深いとかわくわくさせるとかいったものではなく、ただ不安になるものです。


では十字架を見てください。月曜日、イエスは神殿を強盗の巣にした者たちを追い出されました。「わたしの家は祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちはそれを『強盗の巣』にしている」(マタイ21:13)。金曜日、主は二人の強盗の間で十字架に架けられました。「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った」(ルカ 23:32)。


注目すべきは、社会は軽犯罪には素早く対処しますが、深い腐敗に立ち向かうのには時間がかかるということです。二人の犯罪人のうち、一人は主をあざけりましたが、もう一人は真実を見抜いて言いました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ 23:42)。彼は自分が死に、イエスも死ぬと知っていました。それでもこの犯罪人は聖霊によって目を開かれ、3年間イエスに従った12人の弟子たちよりもはっきりと神の国を見ました。イエスは犯罪人に、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ 23:43)と言われました。 

イエスが神殿から清められたもの――罪、強欲、神と人との間の障壁――の代価を、主は十字架にあってご自身の血で支払っておられました。キリストは、「十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました」(Ⅰペテロ 2:24)。


イエスが息を引き取られたとき、地面が揺れました。「地震が起こり、岩が裂け」(マタイ 27:51)。エデンの園で始まり、世代を重ねるごとに複利のように増え続けた負債が、完全に返済されました。


何世紀も前、アブラハムはイサクの上に刃物を振り上げましたが、神はその手を止められました。アブラハムは言いました。「焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」(創世記 22:8)。その山で、神はイサクの代わりに雄羊を備えてくださいました。しかし十字架では、神は御子を出し惜しみされませんでした。私たちのためにご自身の御子を与えられました。「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべてのために死に渡された方……」(ローマ 8:32)。


つまり第一の震動は、負債が決済された音でした。「裁きの震動」でした。創造主が創った被造物に御子が殺されて、大地は苦痛に震えました。


日曜日:第二の震動

物語はイエスの墓と封印で終わることもできました。しかし、日曜日の朝が来て、第二の震動が起こりました。「大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである」(マタイ28:2)


これが第二の震動です。第一の震動が「死」なら、第二は「命」です。天使は石を動かし、その上に座って休んでいました。石が動かされたのは、イエスが外に出るためではなく、私たちが中を見るためです。

墓の番兵たちはそれを見て倒れました。「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」(マタイ28:4)。屈強な兵士である番兵も、神の力を目にして死んだように倒れました。


天使は、女性たちには「恐れることはない」(マタイ 28:5)と言いました。復活は恐怖を伴いますが、天使は恐怖に真理で答えます。「十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」(マタイ28:5–6)。そして、「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」(28:6)と天使に言われて見てみると、墓は空で何もありません。「急いで行って弟子たちに……告げなさい」(28:7)と天使は女性たちに言いました。


重要なのは、「来て見る」こと、そして「行って伝える」ことです。あなたは伝道者でなくてもよいのです。誰もが神が自分の人生になしてくださった証人です。自分のことを話すのに、上手な話者である必要はありません。お笑い芸人の面白いネタを友人に話しても、たいがい笑ってもらえないでしょう。なぜならそのネタはあなたのものではないからです。神があなたの人生に何をしてくださったかを証明するよう、神はあなたに求めておられます。それが「証し」(testimony)です。他の人の神との体験を繰り返すように召されているのではありません。この女性たちがしたように、あなた自身が見たことを語るように召されています。空の墓で立ち止まり続ける人はいないでしょう。


恐れの中で前へ進む

「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り……」(マタイ28:8)。これが本物の信仰の姿です。信仰とは恐れがないことではなく、恐れの中で動き出すことです。恐れと喜びが共にある中で前進し続けることです。女性たちが弟子たちの所へ行く途中に、イエスが立っていました。「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われた」(28:9)。主は、従順な彼女たちが行く道の途中で会ってくださいました。立ち止まっている時ではなく、道を進んでいる時に出会いました。「婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」(28:9)。これが、復活のキリストに対する唯一の正しい出会い方です。距離を置くのでも疑うのでもなく礼拝するのです。主は女性たちの前に、肉体を持って立っておられました。

そして主は言われました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちに……言いなさい」(28:10)。恐れは使命に取って代わられました。以下が二つの震動の違いです。


  • 第一の震動はあなたを打ち砕き、第二の震動はあなたを送り出します。

  • 第一の震動はあなたの罪を示し、第二の震動は主の勝利を示します。

  • 第一の震動は地面を揺らし、第二の震動はあなたの人生を変えます。


選択する:あなたはどの状態にいるか

問いは単純です。あなたはどの曜日にいますか。過去の重荷を背負ったまま、まだ「金曜日」にいますか。沈黙の中で待ち続ける「土曜日」に立ち止まっていますか。日曜日はすでに来ました。石はすでに動かされました。墓は空です。空の墓の中で命を探すのをやめましょう。命は主の中にしかありません。「あの方は、ここにはおられない。……復活なさったのだ」(28:6)。


イエスが生きておられるので、罪があなたに対して最後通牒を突きつけることはできません。「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(Ⅰコリント 15:55)。死の力は打ち砕かれました。もし御子があなたを自由にするなら、「あなたは本当に自由になる」(ヨハネ 8:36)のです。これは理論ではなく現実です。なぜなら墓は空だからです。


あの女性たちが言われたのと同じように、命令は生きています。「行って、伝えなさい」。世界には、今も墓の前に立ち、命のないところで命を探している人々であふれています。世界中の人が真理を聞く必要があります。「主はここにはおられない。復活されたのだ」と。


墓に戻ってはいけません。神がすでに葬り去ったものを再建してはいけません。キリストがすでに清められた「強盗の巣」に戻ってはいけません。前を向いて、自由のうちに、真理のうちに歩きましょう。

第一の震動は大地を揺らしました。第二の震動は道を開きました。 主は復活されました。本当に復活されました。





話し合ってみよう

  1. 棕櫚の日曜日、人々はイエスに何を期待していましたか。また、主の使命は彼らの期待とどのように異なっていましたか。

  2. 第一の震動は十字架で、第二の震動は空の墓で起こりました。それぞれの「震動」は、あなたの人生において何を象徴していますか。

  3. 天使は「来て見なさい……そして行って伝えなさい」と言いました。神があなたの人生でなしてくださったことで、他の人に分かち合えることは何ですか。

  4. 女性たちは「恐れながらも大喜びで」前進しました。恐れを感じている時でも神に従うということは、あなたにとって具体的にどのような姿ですか。



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