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三つのDの信仰

  • 7月20日
  • 読了時間: 17分

「三つのDの信仰」

説教者:Pastor Tim Boyle

神戸ユニオン教会

2025年7月20日


今朝こうして皆さんとご一緒できてとても嬉しく思います。KUCに来るのは何年ぶりでしょうか。実のところ、最後にここに来たのがいつだったか思い出そうとしているところです。確か、2017年の終わりから2018年の初めにかけての約3か月間、ジュウジが入院していた際に六甲アイランドの牧師館に滞在していましたし、2019年にも短期間来た記憶があります。ですので、少なくとも6年ぶりということになりますね。その間にきっと多くのことが変わったことでしょうが、それでも見覚えのあるお顔がたくさんあって嬉しいです。

さて、今朝お話しするメッセージのタイトルは「三つのDの信仰(A Three-D Faith)」と、少し謎めいていますが、これは“D”の文字から始まる3つの言葉に焦点を当てたいからです。通常、「3D」と言えば「三次元(3-dimensional)」を意味しますよね。ディズニーランドやユニバーサルスタジオで専用のメガネをかけたことがある方なら、三次元の視覚効果がどんなものかご存じでしょう。その意味で、今日私がお話しする内容にも、この通常の「3D」の意味があると言えるかもしれません。

聖書では、神が創造されたさまざまな命について詩的な表現で語られており、命には3つのレベルがあることが示されています。すなわち、「肉体(body)」「魂(soul)」「霊(spirit)」の3つです。ヘブライ語の聖書には、英語で「create(創造する)」と訳される言葉が複数あり、その違いを理解することは、命の創造についての聖書の教えを正しく理解するためにとても重要です。

「バラー(barah)」というヘブライ語は、「以前にはまったく存在しなかった新しいものを創造する」という意味を持ちます。そして創世記1章では、この「バラー」という言葉は3回しか使われていません。それぞれが命の3つのレベル ― 肉体、魂、霊 ― に対応しています。

最初の使用例は創世記1章1節、「初めに、神は天と地を創造された」という箇所で、これは物理的なものが何も存在していない状態から、神が宇宙を創造されたことを示しています。つまり、これは物理的な宇宙の創造です。そして、その後、神が人間のために地を整える中で創造された様々な下位生命体は、この物理的な材料から創られたものであり、それゆえ「バラー」という語はそれらの創造には使われていません。それらの命の創造は、物理的宇宙の創造の一部として含まれているのです。これらの生命は、いわば「第一レベルの命」、すなわち物理的な命だけを持っている存在と言えるでしょう。

「バラー(barah)」という言葉が次に使われるのは、創造の第5日目に鳥と哺乳類が創造された場面です。では、彼らの何が「新しい」のでしょうか? それは、私が「魂(soul)」と呼んでいる第二の命のレベル、すなわち「心・感情・意志」のレベルです。

ヘブライ語には他にも、すでに存在する素材から何かを「形作る」「再構成する」ことを意味する語が2つあります。鳥や哺乳類については、それらの語が彼らの「身体的側面」、つまり物理的な身体を指して用いられています。物理的なレベルでは、彼らの身体は下等な生命体と大差ありません。したがって、この場面で「バラー」が使われているのは、物理的な部分ではなく、「心・感情・意志」という新たなレベルの命が創造されたことを示しているのです。

この文脈での「魂(soul)」という言葉は、そのような意味を持っています。鳥や哺乳類は、この第二の命のレベルを持っており、それによって人間個人との関係を築くことができるのです。こうした動物たちは、単なる条件反射や本能的行動を超えて、心や意志、感情といった側面を明確に示すことができ、人間と個人的な絆を結ぶことが可能なのです。

そして第三のレベル ― 今日のメッセージで最も注目したい部分 ― それが「霊(spirit)」のレベルです。これは、神のかたちに創造された、私たちの中にある霊的存在の部分です。創世記において「バラー」という言葉が用いられる最後の場面は、人間の「霊」、すなわち「神のかたち」に造られた永遠の霊が創造されたときです。

神が創造されたすべての物理的生命体の中で、この第三の命の次元 ― 霊のレベル ― を持っているのは人間だけです。英語では「soul(魂)」と「spirit(霊)」という言葉がしばしば同義で使われますが、ここではそれらを区別して使います。「魂」は心・感情・意志のレベルを指し、「霊」は永遠の本質 ― 神のかたちに造られた存在 ― を意味しています。

人間の霊の創造については、創世記2章7節において暗示されています。そこにはこう書かれています。「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」

この一節は非常に深い意味を持っており、今日私が扱いたい3つの“D”で始まる言葉 ―「ちり(Dust)」「神性(Divine)」「運命(Destiny)」― を内包しています。これら3つの言葉が、「三つのDの信仰(3-D Faith)」という言葉に込めた意味を要約しているのです。すなわち、これらは「人間であるとはどういうことか」という本質を表しているのです。

そもそも、「人間とは何か?」をどう定義すればいいのでしょうか? 実は、第二次世界大戦後に国際連合が創設された際、各国の代表者たちはこの問いについて数日間議論を重ねたのだそうです。「『人間らしさ』とは何か?」という問いに対し、しかし議論はあまり進展しませんでした。なぜなら、マルクスとモーセ、ダーウィンとダビデを同時に論じることはできないと気づいたからです。神を信じる立場(有神論)と神を否定する立場(無神論)は、水と油のように混ざり合うことができないのです。

すべてを決定づける基本的な前提は、「人間の起源をどう説明するか」という点にあります。マルクスやダーウィンの立場では、人間は自然の偶然の産物であり、責任を負うべき創造主はいないということになります。一方で、モーセやダビデの立場では、人間は自然の偶然ではなく、神によって目的をもって創造された存在であり、肉体の死を越えて生きる「霊」を持った存在とされます。

モーセやダビデ、そして他の聖書の著者たちによれば、人間とは「ちり(Dust)」「神性(Divine)」「運命(Destiny)」という3つの要素を持つ存在なのです。では、これら3つの言葉から、どのような教えが得られるのか、順に見ていきましょう。

まず最初の言葉は「ちり(Dust)」です。ちりは聖書において非常に重要な象徴です。それは「命」とは対極にあるものであり、人間のへりくだった存在を象徴するために用いられます。聖書の登場人物たちは、自らの悲しみや悔い改めを表すとき、「荒布(あらぬの)」を身にまとい、灰とちりをかぶっていました。

ちりは形がなく、朽ち果てた結果として生まれるものです。それは分解された(disintegrated)、不快な(disgusting)、そして崩れた(decayed)ものと言えるでしょう ― これらもまた “D” で始まる3つの単語です。それでもなお、人間は象徴的にこの「ちり」と深い関わりを持っています。

創世記3章19節では、人間の堕落の後、神はアダムにこう告げられました:

「あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、/あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」


この言葉を聞いて思い出すのは、小さな女の子の話です。ある日、母親が創世記のこの箇所を読み聞かせて、人間はちりから造られ、死ぬとまたちりに戻るのだと説明しました。その話がとても印象に残ったのでしょう。しばらくして、その子が大慌てで母親のところに駆け込んできてこう叫びました:

「ママ!ベッドの下を見たら、すっごくたくさん人がいたよ!でも、来てるのか行ってるのかは分かんなかった!」

……まあ、その「ちり」は、聖書が意図している意味とはちょっと違いますね(笑)。実際、TEV(現代英語訳聖書)のような訳では「soil(土)」という言葉が使われています。原語のヘブライ語では、「粉状のもの全般」を指す語が用いられており、この場合は「地面のちり」を意味します。

興味深いのは、「地面」という言葉のヘブライ語が「アダマー(adamah)」であり、最初の人の名前「アダム(Adam)」と非常に近い語であることです。実際、ヘブライ語の原文では「人類全体」を指すときに「ハ・アダム(Ha Adam)」、つまり「そのアダム」という表現が使われています。つまり、「ハ・アダム(人間)」は「アダマー(土)」から創造され、その最初の人が「アダム」と名付けられたのは、彼の起源を象徴するものだったのです。

……なんだかあまり名誉な話ではありませんね。あなたも私も ただの「ちり」、つまり「土くれ」だなんて。でも、それだけでは終わらないのです。ただの物理的な存在であったとしても、私たちの体を構成する基本的な元素自体の市場価値はわずか数ドル程度だと言われています。しかし、その元素が組み合わさって作られる複雑な化学物質を分離して販売できるとしたら、その価値は何百万ドルにもなるそうです。そう考えると、体積が大きい人の方が高値がつくことになりますが、もちろんそれが人間の本当の価値ではありませんよね。

人間の命は、肉体を構成する化学成分以上の価値を持っています。それは、次の“D” ― 「Divine(神性)」のゆえです。創世記1章26節にあるように、神はアダムとエバを「ご自身のかたち」に創られました。神は、ちりでできた私たちの肉体に「霊」を与えてくださったのです。神がアダムを「アダマー」から創られたとき、こう書かれています:

「神はその鼻にいのちの息を吹き込まれた。」

この箇所について、非常に興味深い点が2つあります。

まず第一に、「いのちの息(the breath of life)」を神から受け取ったのは人間だけだということです。動物たちはこれを受けていません。創世記2章19節にはこうあります:

「神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り」

アダムと同様に、動物たちも「地から」造られましたが、「いのちの息」が与えられたとは記されていません。つまり、彼らは私たちのように「霊」を受け取ってはいないのです。彼らは物理的に呼吸はしていますが、「いのちの息」は持っていません 。神のかたちに、永遠の霊をもって造られた存在ではないのです。こうした高等動物たちは、「肉体的な命」と「魂的(soulish)」な命、すなわち意志や感情のレベルまでの命しか持っていません。

一方で私たち人間は、三つの命のレベル ― 肉体、魂、そして霊 ― のすべてを持っています。私たちは「ちり」であり、「神性」をも備えた存在なのです。神によって吹き込まれた霊を与えられており、私たちがそれを受け入れるなら、神の聖霊が私たちの内に宿ってくださる ― 聖書にも「あなたがたのからだは聖霊の宮である」と記されています。

そしてここで、3つ目の “D” で始まる言葉 ―「運命(Destiny)」へとつながっていきます。これは、創世記2章7節の最後のフレーズ「こうして人は生きものとなった(and the man became a living being)」に示唆されています。ここで言う「生きもの」とは、単に肉体的に生きているという意味ではありません。動物も植物も物理的には生きています。しかし私たちはそれ以上の存在 ― 創造主を知ることができ、またそのお方に応答することのできる「生きた存在」なのです。

私たちは特別な「運命(Destiny)」を与えられており、その運命を果たすためには神と関係を持たなければなりません ― それによってこそ、私たちは「生きもの」としての本当の可能性を生きることができるのです。

動物は、ただ存在しているだけでその運命をまっとうすることができます。犬や猫は、飼われているだけでその「使命」を果たしているとも言えるでしょう。私は、これら高等動物にもある種の「魂(soul)」 ― すなわち思考や感情、意志 ― が与えられていると思います(もちろん、人間ほど高度に発達しているわけではありませんが)。彼らは特定の人間と個人的な関係を築くこともできます。

人間は、自分がどこから来たのか、そして人生にどのような意味があるのかを説明する必要があります。「私は誰なのか?」「なぜここにいるのか?」「私の人生にはどんな意味があるのか?」――これらは人生における「大きな問い」です。哲学的な性格でない人でも、いつかはこうした問いに思いを巡らすことがあります。彼らは「答えなどない」と感じるかもしれませんが、それ自体が一つの答えです。なぜなら、それは結局、自然主義者が導き出す結論と同じだからです。すなわち、私たちの人生には、私たち自身が作り出す以外には何の意味もない、ということです。私たちは単なる偶然の産物であり、究極的には、私たちの存在には目的も理由もないというわけです。

もし「神性(Divine)」が存在しないのなら、「運命(Destiny)」も存在しません――絶滅こそが、個人としても種としても、私たちの唯一の運命である、という意味において。

結局のところ、基本的な選択肢は2つしかありません。この宇宙を超越的な創造主がつくったのか、それともそうではないのか。もし創造主なる神の存在を否定するなら、自然法則によって偶然に生まれたという説明しか残されていません。これら二つの概念こそが、世界中の人々の心と精神をめぐって争う、2つの基本的な世界観の土台なのです。それぞれの世界観にはさまざまな具体的な形がありますが、最終的にはどちらか一方に分類されます。そしてそのすべての出発点は、「私たちの起源」に対する理解にあります。なぜなら、起源が運命を決定するからです。同様に、起源の理解が、人間の本質や価値、その他すべての人生観・世界観を決定するのです。

もし私たちを創造した神が存在し、その神が生命を可能にする物理的環境も共に創造したのであれば、それは神が目的を持って私たちを造られたということであり、私たちは創造された存在としてその神に対して責任を負うことになります。つまり、善悪の基準が存在し、それに基づいた裁きがあるということです。

しかし、もし神が存在しないなら、私たちの創造主は「偶然」であり、すべては相対的です。存在するルールはすべて私たち人間が作り出したものであり、それゆえに、先祖が作ったものを私たちが自由に変えても構わないということになります。

今日、社会で議論されている数々の論争、いわゆる「文化戦争」と呼ばれるものは、実はこの根本的な闘いの小競り合いにすぎません。本当の戦いとは、私たちの起源に関する2つの根本的な説明の衝突なのです。すなわち、聖書的な世界観と、それに対抗するさまざまな物質主義的世界観との衝突です。

しかし彼らは、神を認識する意識を持っておらず、創造主と個人的な関係を築くことはできません。なぜなら、霊が与えられていないからです。創造主に応答する力 ―「応答する能力(response ability)」― を持っているのは人間だけです。そしてその「response ability(応答する能力)」は、私たちに「responsibility(責任)」をもたらします。つまり、自分の運命に対して責任があるということです。

選ぶのは私たち自身です。動物のように、ただの土くれと化学物質の集まりのように生きることもできますし、あるいは本当の意味で「人間らしく」 ― 創造主に応答する「生きた存在」として生きることもできるのです。

聖アウグスティヌスは人間についてこう述べました。「主よ、あなたのもとに憩うまで、私たちの心は安らぐことがありません」。同様に、フランスの有名な科学者ブレーズ・パスカルもこう言いました。「人の心には神によってしか満たされない“神のかたちをした空洞”がある」。それこそが、神が私たちを創造された方法なのです。私たちの霊は、神との交わりの中でのみ成長し、繁栄することができます。しかし、神は無理やり私たちにご自身を押し付けることはされません。神は私たちに自由意志を与えられたので、私たち自身が心の扉を開き、神が私たちの内なる空洞を満たしてくださるようにしなければなりません。

この「神のかたちをした空洞」は、人間が意味を求める本能によっても証明されています。地球上のあらゆる生命体の中で、人生の意味や死後の存在といった抽象的な概念について考える能力を持っているのは人間だけです。哺乳類や鳥のような高等動物も悲しみなどの感情を表現することはできますが、抽象的な思考や、自分の将来の人生(たとえば死後の人生)について計画するような行動は見られません。

創世記において神が「私たちを神のかたちに創造された」と記されているのは、このことを意味しています。この次元こそが「神のかたちをした空洞」であり、それは神によってしか満たすことができません。ですから、私たちがこの空洞を別のもので埋めようとすると、言わばこの「神のかたち」が見失われてしまうのです。ある人々はさまざまな霊的な探求でこの空洞を満たそうとし、また別の人々は自然主義的な哲学でそれを試みます。たとえば、「ニューエイジ」の思想では、UFOや地球外文明とのコンタクトを信じ、それらが「確実に存在するはずだ」と考えることで、この空洞を満たそうとする人がいます。これらは“代替宗教”であり、真の創造主との交わりを他のものに置き換えるという意味で、偶像崇拝にあたります。

著名な天文学者カール・セーガンは、「地球外知的生命体探査(SETI)」を世に広めました。彼は、私たちが遥かに進んだ文明とコンタクトをとることができれば、それが私たちの救いとなるだろうと主張しました。彼は、宇宙人から暗号化されたメッセージを受け取り、それが「銀河百科事典(Encyclopedia Galactica)」となると、雄弁に書き記しました。

しかし、科学的な観点から見ると、実はすでに私たちは“地球外知性”からの暗号化されたメッセージを受け取っているのです。それが、DNAのコードであり、私たちの体のすべての細胞に情報として組み込まれているあらゆる形式のコードです。私たちはこのコードを「生物百科事典(Encyclopedia Biologica)」と呼ぶこともできるでしょう。この20年間で私たちはその解読に大きな進歩を遂げましたが、同時に、学べば学ぶほど、この生化学的な現象がどれほど驚くべき複雑さを持っているかを思い知らされるばかりです。まさに驚くべきメッセージです。

この驚くべき情報は、それ自体の内部から生まれたのではなく、その外部から来たものであるという事実を語っています。つまり、それは“地球外の知性”から私たちに届けられたということです。聖書のメッセージは、その「地球外知性」は、約2000年前にイエス・キリストとして人間の姿で私たちのもとに来られた、ということです。

この「地球外からのメッセージ」としての遺伝子コードについては、礼拝後のディスカッションの中でもう少し掘り下げてお話しできるかもしれません。

最後に、皆さん一人ひとりが、神の子としての本当の運命、すなわち「塵」と「神性」の両方を持つ存在であることを改めて確認していただきたいと思います。

人間の心にある「神のかたちをした空白」とは、私たち人間が意味を求めて抱く内なる渇望のことです。

そして、古くから「自然は真空を嫌う」と言われていますが、それは物理的な意味だけでなく、霊的な意味でも当てはまります。

もし神がその空白を満たさなければ、必ず何らかの代替物が入り込みます。それは、極端なUFOカルトかもしれませんし、自然主義的信仰に基づく人間起源の説明かもしれません。または、自分中心の贅沢なライフスタイルかもしれません。

こうしたものはすべて、本物の代わりとしては空虚なものであり、木の像を彫って拝むのと大差ありません。

これらはすべて偶像礼拝の一種であり、だからこそ聖書は無神論だけでなく偶像礼拝に対しても強く警告しているのです。

こうした不十分な代替物では、私たちは神のかたちに造られた霊的存在としての本来の運命を生きることはできません。

ただ神との個人的な出会いを通してのみ、すなわち、私たちの心の扉を開け、神がその空白を満たすことを許し、その後も神の光の中を歩み続け、交わりを持つことによってのみ、私たちは「塵」であり「神性」を持つ完全な人間としての運命を実現できるのです。

聖書の最後のほう、ヨハネの黙示録3章20節では、イエスがこう言っています。

「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」

もしかしたら、あなたはまだ心の扉を開けて、キリストを救い主、主としてお迎えしたことがないかもしれません。

あるいは、以前そうしたけれど、今ではその交わりが疎かになって冷めてしまっているかもしれません。

私たちは皆、自分の霊的な状態を見つめ直し、聖霊の導きに心を開く必要があります。

そしてそれは、自分の力で霊的に奮い立たせようとする努力ではありません。

私たち自身には、この神が造られた空白を埋める力はないのです。

それができるのは神だけです。

私たちにできるのは、それを「許すこと」、つまり意志の選択をすることだけです。

祈りの中で、私たちはキリストに人生の舵を取っていただくよう願い、また神の御言葉に心を向けることで私たちの人格を整えることができます。

ローマ人への手紙12章1~2節にはこうあります:

「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。」

ここでは「心を変えなさい」とは書かれていません。「変えていただきなさい」と書かれています。

変えてくださるのは神なのです。

それでは祈りのうちに、この神の働きが私たちの心に起こるよう願い求めましょう。

祈り:

主よ、あなたは本当に私たちを「塵」と「神性」の驚くべき組み合わせとして創造し、私たちに目的と運命を与えてくださいました。

主よ、私たちの心は、あなたのうちに安らぎを見出すまで、本当に落ち着くことがありません。

主よ、もし今日ここに、初めて信仰の一歩を踏み出し、キリストを心にお迎えしようとしている人がいるならば、その人の心にある疑いや恐れを取り除いてください。

そして私たちすべてに対して、あなたの聖霊を豊かに注いでください。

私たちが心をあなたに開き、創造主であるあなたとの交わりの中で、霊的な存在としての本当の運命を実現できますように。

イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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