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イエスに目を向ける

  • 5月18日
  • 読了時間: 15分
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イエスに目を向ける

神戸ユニオン教会 ― 2025年5月18日

ペトロの手紙一1:3-7

説教者:Mark Birtsch牧師



聖書に出てくる人物の心を本当に理解するには、その人の話した言葉を理解するだけでは物足りません。その人物の立場になって考えてみることです。そこで今回私たちはペトロになってみましょう。

ペトロであるあなたはローマにいて、死期が近づいています。あなたはローマを象徴的に「バビロン」と呼びます(Ⅰペトロ5:13)。バビロンは、捕らわれの身、故郷から遠く離れた地、腐敗を象徴しています。ペトロであるあなたが、イエスに「ついて来なさい」と呼ばれたガリラヤの岸辺からはるか遠く離れた場所です。

ペトロがバビロンという言葉を使った理由は、「バビロンの流れのほとりに座り シオンを思って、わたしたちは泣いた」(詩編 137:1)の箇所を思い浮かべたからでしょう。しかしペトロは過去や現在を思って泣いているのではありません。これからやって来る喜びに涙しているのです。その喜びとは、私たちが受け継ぐ新しいエルサレムのことです。


ペトロは、小アジア(現在のトルコ)に散らされたイエスの信仰者たちから手紙を受け取りました。信仰者たちが集う教会は、今のような建物や看板があったわけではなく、信仰の家族としての小さく、か弱い信仰共同体で、社会から孤立し、嘲笑や迫害を受けていました。

この小アジアの信仰者たちは、ペトロにとって面識があり愛する人たちです。中にはペトロがキリストに導いた人もいたはずであり、共に祈り、教え、笑いあったキリストにおける兄弟姉妹たちです。ペトロによって成長した信仰ゆえに、彼らは苦しんでいます。


あなたの愛する人が苦しんでいる時、あなたは何と声をかけますか。(仮想ではなく実際の話として)。自然災害や自分自身の失敗によるものではなく、イエスに従う選択をしたがゆえに、イエスのために立ち上がったがゆえに、苦しんでいる時です。苦難は誰にでも訪れます。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)とイエスは言っています。私たちのこの美しくも壊れた世界では、病気も不安も喪失も私たちの人生の一部です。


しかし迫害は通常の苦難とは違い、あなたが何をしたかではなく、あなたが何者であるかが攻撃されます。具体的にはキリスト者としてのあなたのアイデンティティが標的になります。迫害を受けると、そこから逃れたいという誘惑にかられます。信仰を捨ててしまえば楽に生きていける、世の中とうまくやっていけると安易に考えてしまうのです。

ペトロはこの種の誘惑を知っていました。イエスが捕らえられた時、ペトロは火のそばで火の熱さと群衆の圧力を肌に感じつつ、一度ならず三度もイエスを知らないと言いました。その後恵みによってイエスに再び呼ばれ、関係が修復された意味についても知っていました。

「ペトロの手紙一」はその恵みの視点から書かれています。私たち信仰者も人と話すときには、この視点を大事にしたいものです。つまり私たちは教会の中でも外でも、恵みの視点から人と話をするべきです。


先週の説教で話したように、ペトロは失敗とその赦しを知っており、恐れと信仰を知っています。それゆえ小アジアの信仰者たちに、苦難に目を向けるのではなく、主イエスに目を向けるよう書き送りました。ペトロは苦難そのものより、もっと大きなものに目を向けています。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。 わたしの助けはどこから来るのか」(詩編 121:1)。答えは「天地を造られた主のもとから」来ます。ペトロはこれを知っていて、小アジアの教会の人たちが、苦難の中でも助けは主から来ることを忘れないように励ましています。


このことは日本の歴史を思い起させます。17世紀の日本でキリシタンは奉行の前に連れて来られ、棄教の証明として踏み絵を強制されました。多くのキリシタンが踏み絵を拒絶し、自分を召命してくださった主を否定するより死を選びました。今でも長崎の日本二十六聖人記念館や大浦天主堂(日本最古の教会)で、それを知ることができます。


ペトロが手紙を書いた人たちは、その当時の日本とおなじような状況にありました。小アジアの教会の人たちは、忍耐力とともに信仰者としてのアイデンティティも試されていました。ペトロは、「私の生涯も苦しいものだった」とか「あなたたちの苦しみに同情する」とは書いていません。それは苦しみに目を向けることになるからです。ペトロは彼らの目を神に向けるよう促しました。神は私たちに「生き生きとした希望を与え」、「朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者」としてくださり、私たちの信仰は金よりはるかに尊く、試練により本物と証明されるのだとペトロは書いています(Ⅰペトロ1:3-7)。


前にも話したことがありますが、私は歩くときいつも下を向いて歩きます。おかげでつまずくことも犬の排泄物を踏むこともありませんが、美しいものを見逃しています。ステファニーには頭を上げて歩くよういつも言われます。ペトロも同じことを教会に言っています。信仰を持って頭を上げて歩け、と。


ペトロ、パウロ、ヨハネといった初期教会時代の聖人にとって、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」(Ⅰペトロ1:3)という神への賛美は、一貫していました。キリストを信仰する者の出発点は、神を賛美することです。賛美が最初に来てその次も賛美です。人生の良い時も悪い時も神を賛美します。心を神に向けて賛美すると、不思議な力が働いて何かが起こります。


13年前、大学の求職面接を受けました。私はその職の条件を満たす学歴を持っていましたが、そのほかにも私の履歴書には牧師、神学修士などキリスト教関係の資格が載っていました。友人からはそういう資格は載せないようにアドバイスされ、もし聞かれたとしてもクリスチャンであると話さない方が良いと言われました。私の面接をする人たちはクリスチャンが嫌いだからということでした。面接の最中に、私は自分から信仰について話すことはありませんでしたが、面接官らは私をからかいました。彼らには敵意があり、面接後私はとても落ち込みました。帰宅してステファニーに面接であったひどい仕打ちを話しました。当時私は失業中でした。ステファニーはペトロが初代教会にしたことと同じことをしました。神を賛美しようと言いました。それで家で一緒に歌い、神を賛美しました。その後メールをチェックすると、サイトウリエさんから啓明学院での仕事のオファーが来ていました。そのすぐ後のメールが面接を受けた大学から来ており、私を雇いたいという内容でした。


神を賛美することは魔法の解決策ではありませんが、ストレスの多い時には、賛美するのを思い出す必要があります。神を賛美すると、人生のランニングマシンから降りて、視点を自分自身から神へと移すことができます。祈りにも同じ力があります。賛美と祈りは私たちが毎日行うべき課題です。神への賛美を忘れてはいけません。「わたしの魂よ、主をたたえよ。 わたしの内にあるものはこぞって 聖なる御名をたたえよ」(詩編 103:1)。


イエスがニコデモに「人は新たに生まれることで霊的ないのちを授かるのだ」と教えた、夜遅くの会話を思い出さずにいられません(ヨハネ3章)。ペトロが手紙を書いた信仰者たちはすでに霊的ないのちを授かっていましたが、さらにペトロは念を押しています。

もう一度母親の胎内に入ってはいけない。以前の生活に戻ってはならない。


私はキース・グリーンという歌手が好きで、“So You Wanna Go Back to Egypt”(エジプトに戻りたいのか)という面白い歌があります。「暖かくて安全なエジプトに戻りたいのか」という歌詞です。エジプトは、以前の人生の象徴です。ペテロが小アジアの教会に、神が信仰者を新しく生まれさせたと言ったのは次の意味からです。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」(Ⅱコリント5:17)。


実際、ほとんどの信仰者はエジプト(元の生活)に戻りたいと思わないでしょうが、多くの者が時々エジプトに立ち寄っています。最初は、ちょっと見るだけ、次は、ちょっと買い物するだけ、その次は、ちょっと一晩過ごすだけ、という具合に知らないうちにエジプト人としてのパスポートを申請していることになります。その過程でエジプト(世俗の世の中)よりはるかによい神の相続財産が用意されているのを見逃してしまいます。


私たちは、決して朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者であるとペテロは言っています。財産は私たちのために天に準備されています。確固とした永遠の財産です。これはイエスが次のように言われたことと同じです。「あなたがたは地上に富を積んではならない。……富は、天に積みなさい。……あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」 (マタイ6:19-21)。ペトロの言うこの朽ちず、汚れず、しぼまない財産とは目に見える物ではありません。この財産は、イエスを通じて保証された、神と共にある永遠の命の約束です。


ペトロが手紙を送った小アジアの教会の信仰者の中には、キリストを信じるがゆえに財産、仕事、そして家族さえ失った人や、市場から閉め出された人もいました。しかしペトロは言います。あなた方の救いは今あなたが置かれている状況に関係なく、あなた方の神との関係は確実なものです。希望は確かなものです。


あなたの周囲の状況がどれほど不安定でも、キリストによってあなたが受け継ぐ財産は神に守られています。言いたくありませんが、私たちがイエスに従う時、苦しみはついてきます。イエスが言われたのは「枕を持ってついて来なさい」ではなく、「十字架を背負ってついて来なさい」でした。ペトロが言うには、私たちは「しばらくの間」苦しみを受けなければならないかもしれませんが、それでもその苦しみは偶然でも無駄でもなく、目的があります。金が高温の火で精錬されるように、私たちの信仰も苦しみによって鍛え上げられます。


金は火で試されます。あなたの信仰もそうです。信仰は金よりも尊いとペトロは言います。金は朽ちますが、信仰は、イエスの復活によって永遠の命へ、生きた希望へ私たちを導くものだからです。ペトロはただ希望と言わず、生き生きとした希望と言います。希望を生かしているのは何でしょうか。それはキリストイエスの復活です。イエスがよみがえられたので、主における私たちの希望が死なず、停滞せずに、生き生きとして確かなものになっています。火が金を精錬するように、試練は私たちの信仰を鍛えあげます。試練はつらいものですが、本当に価値のあるものがわかり、以前よりもっと深いところで神に頼るようになります。


いくつかの教会、特に健康と富を崇拝するような教会では、十字架を忘れています。今日は命について話しているので、そういう悪い話は詳しく話しませんが、それでもそういった私たちの敵について無知でいてほしくありません。私たちには敵がいます。敵は、私たちが豊かに命を得るのを望みません。あなたがつまずいて転ぶのを待っています。


しかし敵が理解していないことがあります。それはあなたが敵の攻撃を受けても、その後、神に恵みと赦しを求めて立ち上がるごとにあなたの信仰は強まります。

私はちょうど中国がクリスチャンに対して、締め付けを前より厳しくするという記事を読んだばかりです。信頼できる記者が、「こういった締め付けが教会をより成長させることを、中国共産党は理解していない」と言っていました。信仰が試されると、信仰はより強くなります。中国や中東の、迫害に遭っているクリスチャンのために祈らなくてはなりません。


長年の間、敵が私に仕掛けてきた一番の攻撃は、他人の持っている才能、財産、時間、能力、地位などを熱望する欲でした。私はその罪を心の中で育ててしまっていました。霊的に戦うことができるようになったのは、それを罪として名指しし、告白してからでした。

多くの人が霊的な戦いを肉の武器で戦ってうまくいかず、敗北しています。


このような表に出ない隠された戦いで、最強の武器のひとつとなるのは希望であるとペトロは言っています。数年前、デューク大学の研究で、ネズミがどのくらいの時間泳いでいられるか調べた実験について読みました。ある実験で、健康なネズミをオリンピックサイズの大きなプールに入れました。ネズミはプールの壁に沿って何周か泳ぎましたが、出口がないとわかって諦めてしまいました。次の実験では、プールの壁に二つの出口をつけました。ネズミが壁に近づくと実験者はその出口を閉じますが、もう一方の出口を開けます。そのほんのわずかな希望のためにラットは100周も泳ぎました。実験は残酷ですが、これにより、希望がすべてであるという真理を証明しています。


では私たちは何に希望を託しますか。「主よ 今 私は何を待ち望みましょう。私の望み それはあなたです」(詩編39:7)。またはあなたは希望を金銭や自分の能力に託しますか。もしあなたが希望を主ではなくほかのものに置いているなら、それはいつか尽きてしまうでしょう。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが 主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。 走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ40:30-31)。


ペトロは、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルなど旧約の預言者が聖霊に導かれ、やがて来る恵みについて語ったことについて述べています(Ⅰペトロ1:10)。これらの預言者たちは、神の救いの一部を知っていましたが、完全な全体像は理解していませんでした。預言者たちは、神の約束の成就を切望していましたが、遠くから見ていただけでした。それは山の上から谷を見ているようなものです。遠くからでも谷の風景は見えますが、細部はわかりません。同じように、預言者たちも救いの輪郭を見ることはできましたが、その完全な美しさと明快さは、イエス・キリストによって初めて明らかになりました。


このことは、神の約束を切望することの重要性を教えています。たとえ今、神の自分に対するご計画のすべてを理解することができなくても、その片鱗しかわからなくても、私たちは神の恵みと救いは完璧であると信じることができます。


「預言者たちは、自分たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証しされた際、それがだれを、あるいは、どの時期を指すのか調べたのです」(Ⅰペトロ1:11)。ここでペトロはもう一歩踏み込んでいます。預言者たちは聖霊によって、未来の出来事、特にメシアの苦難とその後に続く栄光について示されていました。それがいつ、どのように起こるのか正確にはわかりませんでしたが、誠実に預言し続けました。


これは今でも私たち信仰者にとって深い真理です。旧約の預言者たちを動かした同じ御霊が、現代の私たちの内にも働いています。預言者たちはキリストの受難以前に生きていましたが、私たちは十字架の後の時代に生きています。神の未来のご計画を詳しく知っているわけではありませんが、私たちは神が私たちの今後の人生の中で、約束を果たしてくださると信じています。預言者たちは、キリストの苦難とそれによる栄光というレンズを通して預言していました。預言者は完全に理解できないながらも常に十字架を指し示し、神の御心を忠実に民に告げました。同じように、私たちの人生において、自分がなぜ試練を受けなければならないのか理解できなくても、私たちはその後に来る栄光への希望を信じることができます。


「彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのためであるとの啓示を受けました。それらのことは、天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たちが、今、あなたがたに告げ知らせており、天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです」(Ⅰペトロ1:12)。

ここでペトロが言っているのは、預言者は自分のためではなく、私たちのために語ったということです。旧約聖書の預言は、新約聖書の時代の人たちと現代の私たちのために与えられたものでした。イエスキリストによる救いの福音(よい知らせ)は、預言者によって予告されましたが、それが完全に明らかにされたのは、聖霊の力を得た初代教会の使徒たちや伝道者たちを通してでした。


ペトロは現代の私たちが享受できる特権を強調しています。今、私たちは預言者が切望していた「神の約束の成就」に直接触れることができます。旧約時代の預言者たちが見たいと願っていた神の恵みの成就を、私たちがイエスを通して経験できるのはすばらしいことです。私たちはこの大きな贈り物のおかげで感謝に満たされ、ほかの人にもこの感動を伝えたくなるはずです。


この特権は何を意味すると思いますか。第一に、私たちは救いに確信を持つことができます。かつての預言者のように不確かさの中に取り残されているわけではありません。キリストはすでに来られ、すべての働きを成就されました。第二に、他の人に福音を知らせるよう求められています。預言者が人々に来るべきキリストを指し示し続ける使命を担っていたように、私たちも現代において福音を生き、福音を宣べ伝えるよう召命されています。


今から私たちも、預言者と同じようにこの壮大でますます大きくなる物語の一部であり、神の栄光のために今なお展開している物語の一部であると知り、希望をしっかりと持ちましょう。アーメン




〇話し合ってみよう


  1. ペトロが、苦難の中にある人たちへの手紙を、神への賛美から書き始めたのはなぜですか。信仰生活の中で、特に困難な時期にある時、神を賛美することが大切なのはなぜですか。苦難の時、賛美があなたの視点をどのように変えましたか。

  2. 説教では苦難と迫害の違いを強調していました。圧力、特にクリスチャンゆえの圧力に苦しんでいる信仰者(海外も含めて)とどのように支え合うことができますか。今、どんな事例が思い浮かびますか。

  3. キリストによる財産は「朽ちず、汚れず、しぼまない」とペトロは言います。この永久の相続財産に価値を置くのを妨げる「地上の富」にはどのようなものがありますか。どのような時にエジプト(昔の生活)に戻りたいと思いますか。

  4. 火が金を精製するように、苦しみが信仰を精製します。試練を受けたために信仰が強固になったことがあれば話してください。その経験を通して神について、また自分について何を学びましたか。

  5. 神はイエスの復活によって私たちに「生ける望み」を持たせてくださったとペトロは書いています。クリスチャンのいう希望は、希望的観測や楽観主義とどう違いますか。



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