あの方は栄えねばならない
- 8月24日
- 読了時間: 12分

「あの方は栄えねばならない」
ヨハネによる福音書3:22-36
説教者:Mark Bartsch牧師
神戸ユニオン教会
2025年8月24日
今から約16年前、日本に来る直前のことです。ある牧師のグループに説教をしましたが、その時の説教原稿は、太平洋を越えて私と一緒に旅をしてきた数少ない原稿の一つでした。今までの説教原稿は引っ越しの際にあまりに重かったので、その一枚だけを残してすべて捨ててしまいました。
今週その16年前の説教を見ましたが、私は16年前の自分と同じ人間ではありません。成長したと思っています。成長は、神と共に歩む人生の中の基本です。ペトロは、「わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい」(Ⅱペトロ3:18)と言っています。
成長とは変化なので私たちは変わるべきです。私たちが変わる一方で、神の御言葉は決して変わりません。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ13:8)。変化の激しいこの世の中にあっても、私たちはイエスという錨にしっかりとつかまることができます。
ヨハネによる福音書3章というと多くの人が16節を思い起こしますが、私もそうです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。これは、神の使命の声明であり、神の動機であり、世界を救うための神のミッションステートメントです。
今回はヨハネ3章のそれほど注目されない箇所である22–36節を見てみたいと思います。普段読み飛ばしがちな部分ですが、そこには力強く重要なメッセージが込められています。自分が見過ごされている、正当に評価されていない、存在感がないと感じ始めたときに、特に心に響くメッセージです。
以前の説教で私は簡単な質問から始めました。あなたは自分が人から見えない存在になっていると感じたことがありますか。他の誰かがいつも受け入れられ、注目を浴びているのに、自分は誰にも気づかれずに仕事をしていると感じたことはありますか。数週間前の説教で話した、マルタが感じたようなことです。しかしイエスは、彼女の姉妹の方がより良い選択をしたと言われました。
正当に評価されていないと感じるのはとても簡単です。そして私たちクリスチャンはお互いを認め合うのが上手とはいえません。聖書は私たちに「互いに愛と善行に励むように心がけ……」(ヘブライ10:24)と言っています。私たちは人の行いを認めるだけでなく、イエスにおいてどういう人かを認めればよいのです。
また、私たちは自分をかわいそうだと思い始めると、嫉妬という危険に陥りやすくなり、嫉妬に正当性を持たせようとします。「このためにどれだけ一生懸命働いたか、どれだけ心血を注いだか知っているのか。その結果何ももらえないなんてありえない」。創世記4章のカインと同じです。神がアベルの献げ物を受け入れ、自分の献げ物に目を留められなかったとき、カインは激しく怒りました。その時神は言われました。「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」(創世記 4:7)。
これは聖書全体の中でも最も正直で現実的な聖句の一つです。霊的な嫉妬は現実に存在します。それは教会指導者を蝕むだけでなく、私たち全員に起こります。
それはまず人と比較することから始まります。そして他人が持っているあれがほしい、これがほしいと思い始めます。すると時を経ずして戸口で待ち伏せしていた罪が、家のドアを蹴破って入ってきます。
ですから十戒の第十は、「隣人のものを一切欲してはならない」(出エジプト記 20:17)と警告しています。他人と比較すれば、私たちの喜び、人間関係、ミニストリーが奪われるのを神は知っておられます。
私が嫉妬に戸口で待ち伏せされたときのことを話しましょう。神の召しに応じて神学校に出願し、授業料、書籍代、生活費のすべてが含まれている3つの全額奨学金の一つに応募しました。私は奉仕の経験もあり、神の召命を真剣に考えていたので、その奨学金をもらえる確率はかなり高いと思っていました。しかし奨学金はもらえませんでした。さらに悪いことに、その3つにそれぞれ合格した3人を知っていました。そしてここが核心なのですが、私は彼らよりも自分の方がより優れた候補者だと思っていました。これが危険な落とし穴です。
でも私はそんなことは口に出して言いませんでした(少なくとも彼らの前では)。そして授業料の支払いが来るたびに、苦々しさと戦わなければなりませんでした。ステファニーは知っていますが、それは私にとって本当に霊的な戦いでした。それは一度だけではありません。自分が取り残されたように感じているときに、他人の成功を祝うのは難しいものです。しかし、福音は私たちにもっと良いもの、もっと難しいもの、そしてもっと聖なるものを求めています。
ヨハネ3章22–36節を読みましょう。イエスは夜、ニコデモと会話をしました。どのようにして新しく生まれなければならないか、御霊の働き、そして世に対する神の愛についてです。その後、イエスはヨルダン川近くのユダヤ地方へと向かいます。
そこには水が十分にあり、洗礼者ヨハネの時と同じように、人々がイエスの所に洗礼を受けるためにやって来ました。ここにゆがんだ心が出てきます。より多くの人々がヨハネよりイエスの方へ洗礼にやって来ます。洗礼を授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちでした(ヨハネ4:2)。ヨハネの弟子たちは洗礼に来る人数を数え、イエスとその弟子たちが自分たちの宣教を邪魔しに来たように感じました。「私たちの方が先にここに来たのに」。
洗礼者ヨハネの弟子たちは、ヨハネのもとに来て言いました。「ラビ、……あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています」(ヨハネ3:26)。ヨハネの弟子たちの不満が聞こえます。「あの人は私たちの宣教を奪っている。私たちが注目されるのを邪魔している」。これは聖書の中の非常に人間的な場面です。ヨハネの弟子たちは、イエスを自分たちの師ヨハネの働きの成就としてではなく、ライバルとして見ていました。
それに対して洗礼者ヨハネは次のように答えました。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。 わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。…… あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネ3:27-30)。
ああ、謙遜について語るならこれです。視点について語るならこれです。洗礼者ヨハネは自分が何者であるか、何者でないかを知っていました。あなたは知っていますか。
ヨハネはキリストではなく、先駆者であり、荒野で叫ぶ声でした。結婚式の新郎ではなく付添人でした。洗礼者ヨハネは自分の役割を説明するために結婚の例えを使っています。彼の喜びは注目の的になることではなく、新郎の声を聞き、その到着を知るところにありました。
「だから、わたしは喜びで満たされている」(ヨハネ3:29)。
彼は自分が損をしたとか、不当な扱いを受けたと感じている人ではなく、「わたしの杯を溢れさせてくださる」(詩編23:5)と知っている人です。ヨハネは自分が神に愛され、召されていると知っています。
ではヨハネ3章30節の「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」というヨハネの言葉をじっくり考えてみましょう。この句は詩的なだけでなく預言的で、霊的なリセットボタンです。そして世の中が私たちに教える考え方や生き方とは完全に逆行します。
現在の文化では、また私たちの心の中でも、自分のブランドを築き、プラットフォームを成長させ、自分の名を上げるのをよしとします。ミニストリーの仕事においてさえ、信者を集め、注目され、人から認められたいという微妙なプレッシャーがあります。口に出して言わずとも「私は栄えなければならない」と心の奥底で感じています。
しかし、ヨハネはそれをひっくり返します。彼は「自分の宣教を守らなければ」とか「私の影響力をそがないでくれ」とは言いません。ヨハネの目標は自己宣伝ではなく、キリストを高く掲げることでした。
ヨハネの宣教は常にその真理の上に築かれていました。彼は注目を浴びるために活動していたのではなく、また信者を留めおこうとしたのでもなく、物語の筋を変えようとしたのでもありません。ヨハネは、自分の役目はメシアのために道を整えることだと知っていました。イエスに洗礼を授ける前に、ヨハネはイエスを見て自分の立場を理解し、「わたしはその履物のひもを解く資格もない」(ヨハネ1:27)、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(1:29)と言いました。
この「神の小羊」は、イエスをいけにえの制度と過越しの小羊に直結させる神学的に深遠な言葉です。ヨハネはイエスを預言者としてだけでなく、神の贖いのご計画の成就として見ていました。ヨハネはいわばバックシンガーになって、メシアの声がよく聞こえるようにしました。
私たちはイエスが栄光を受けられるのを望んでいるはずです。しかし時々その栄光が私たちにもほんの少し降り注いでほしいと願います。私たちはヤコブとヨハネのように、「救い主の右と左の座に着きたい」と願います。私たちは忠実で、賢く、勤勉で、尊敬されていると見られたいのです。注目されたいのです。しかし、ヨハネは私たちにそういったものを手放すように挑んでいます。
では、実際に私たちの生活ではどうでしょうか。
自分たちのミニストリーがうまくいっていなくても、他の人のミニストリーが成長すればそれを祝う
賞賛されなくても黙って奉仕する
自分の見解に人を導くのではなく、イエスへ導く
これが「あの方は栄えねばならない」の意味です。それは優れた神学であるだけでなく、優れた弟子生活でもあります。それはイエスに従うことの本質です。私たちの召命は、私たちの王国を築くことではありません。私たちは毎週日曜日に「御国を来たらせたまえ。みこころをなさせたまえ」と祈ります。私の心をなさせたまえ、ではありません。しかし不安を感じたり、見過ごされたり、正当に評価されていないと感じたりしている時には難しいものです。それは忍び寄り始めます。
私たちは皆、ヨハネの弟子たちのように、なぜ自分ではなく他の誰かが注目を浴び、成長し、認められるのかと疑問に思うことがあります。しかし神は私たちに、神の御国での自分の立場に満足するヨハネのようになるよう呼び掛けておられます。
ここで私の心を心底揺さぶることがあります。イエスご自身が、ヨハネの謙遜を真の偉大さとして指摘されています。イエスはこう言われました。「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」(マタイ11:11)。
この言葉についてもう少し考えてみましょう。
アブラハムよりもモーセよりもダビデよりも偉大であり、ヤコブ、イサク、そして天から火を呼び降ろしたエリヤよりも偉大である。
イエスは、ヨハネがより大きな働きをしたと言っているのではありません。イエスが指摘しているのは、ヨハネの心、謙遜、召命に対する明確さ、喜びと熱意です。
ヨハネは自分が何者であり、何者でないかをわかっていました。あなたは自分をわかっていますか。
「私はメシアではない。私はただ荒野で叫ぶ声にすぎない」とヨハネは言いました。ここにねじれがあります。つまり神の目に偉大に映るには、自分に与えられた役割に忠実であることです。
映画界には「小さな役などない、小さな役者がいるだけだ」ということわざがあります。どんなに些細に見える役でも重要であり、本当に大切なのは自分の役をどのように演じるかを意味します。これは御国(そして人生)において、役割の大小にかかわらず、すべての貢献が重要であるということです。
たとえ人が見ていなくても、神は見ておられます。例えばやもめの少額の献金(ルカ21章)です。人は多額の献金に注意を払いますが、イエスは一人のやもめの誠実さを見ました。この誠実さは偉大であり、イエスはそれを見ておられました。
それは、自分自身を低く見なすのではなく、御国についてより深く考えることです。神があなたの物理的な必要だけでなく、あなたの感情的な必要も配慮してくださると信じることです。
ゆえに私たちは「どうすれば偉大になれるか」ではなく、「私の人生、言葉、態度、ミニストリーにおいて、どうすればヨハネのように忠実になれるか」を考えるべきなのでしょう。このことがヨハネの残した遺産であり、私たちが招かれているものです。
それはヨハネの弟子たちには理解しがたい教えでした。私たちにも理解しがたい教えです。
16年前、居心地のよい場所を離れて日本に戻る準備をしながら、若い私はこの聖句と格闘しました。野心と少し不安もありました。そして16年経った今まだ格闘しているものの、ヨハネの思いがもっとはっきりとわかります。つまりそれは私についてではなく、私たちについてでもなく、主についてなのだと。
ですから、嫉妬に戸口で待ち伏せさせないでください。ヨハネは己の名声を築くのではなく、すべての名に勝る御名を指し示すのが自分の使命だと知っていました。このことを思い出して、積極的に嫉妬を追い払いましょう。
私たちも完全な喜びを得ることができます。それは私たちが神のために何をするかではなく、神が私たちにとってどのような方であるかに見出されます。それは、私たちが宇宙の創造主に愛され、召され、見守られているというシンプルで深遠な真理の中に見出されます。
スポットライトを浴びて注目されたい思いをなくし、イエスにスポットライトを向けるようにすると失うものは何もありません。私たちはすべてを得るのです。満ち溢れる喜び、永続する平安、永遠の目的を得ます。結局これは誰が一番多くの信者を得るかというゲームではなく、愛の物語だからです。すべてであるお方、まことの神の小羊であるお方が、私たちを完全にするために来られた愛の物語です。
祈りましょう。
話し合ってみよう
ヨハネ3:22-36は、他の誰かがミニストリーの働きにおいて、より多くの注目や成功を得ているようなときに、自分が採るべき態度について力強い例を示しています。見過ごされている、あるいは正当に評価されていないと感じるときに、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」という真理を、自分の人生にどのように適用できますか。
バプテスマのヨハネの謙遜と喜びは、注目の的になることからではなく、神のご計画の中で自身の特定の役割を知ることから来ていました。どうすれば他人と比較するのではなく、たとえ小さく取るに足らないと感じても自分の召命の中に満足と喜びを見出す心を養うことができますか。
説教では、嫉妬がどのように心の「戸口で待ち伏せ」しているか説明しています。他人と自分を比較する誘惑と戦い、神が私たちに与えてくださった役割を忠実に果たすことに集中するために、私たちが取れる具体的な方法は何ですか。





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