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主に祈りを持って行こう

  • 2月23日
  • 読了時間: 14分

「主に祈りを持って行こう」

ヤコブの手紙  5:13-20 説教者:Mark Bartsch牧師

神戸ユニオン教会 2025年2月23日



今朝、ヤコブの手紙のシリーズを締めくくります。私は書簡シリーズをやるのが個人的にとても好きですし、ヤコブの手紙を通して神の語りかけを聞くことで、自分自身が成長できたと感じています。皆さんも同じように成長できたことを願っています。私達はこれまで、「信仰と行い」、「試練と忍耐」、「謙遜」、「舌の力」、そして「祈りの必要性」といったテーマを取り上げてきました。

ヤコブは、地中海周辺に散らばっていた主にユダヤ人のクリスチャンたちに向けて手紙を締めくくる際に、困難の中にある人は主に祈るべきだと語ります。そして、喜びに満ちている人もまた、神を賛美すべきだと言います。(そうです、待ってください)つまり、「主に持って行く」べきなのです。

ヤコブは、手紙の中で「括弧構造(ブランケット法)」を使っています。これは、2つの極端な例を示すことで、それだけでなくその間にあるすべてのことにも同じ原則が当てはまるということを伝える手法です。例えば、ヤコブは2章で、ユダヤ人にとって理想の信仰者である「アブラハム」と、誰も理想にしたくない「遊女ラハブ」の2人を並べ、両者とも信仰による行いによって称賛されたことを示しました。これは両者の間にいるすべての人もまた、信仰を行動に移すべきであることを意味しています。

ヤコブは、悲しみ(主に持って行く)と喜び(主に持って行く)という両極端な感情を述べ、それだけでなく、その間にあるすべての感情も主に持って行くようにと呼びかけています。パウロはⅡコリント 10:5で、「私達は様々な議論と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち倒し、またすべてのはかりごとを取り押さえて、キリストに服従させます。」と言っています。しかし、パウロとヤコブが求めているのは、考えだけではありません。あらゆる感情(悲しみから喜びまで)を主のもとに持って行くことなのです。

疲れたとき、主に持って行きなさい。疑いや挫折と戦うとき、主に持って行きなさい。この非常にフラストレーションの多い世界の中でイライラを感じるとき、主に持って行きなさい。多くの人は、信仰が感情を断ち切るものだと考えていますが、それは誤りです。神は、私達が与えられたあらゆる感情を持つことを望んでいます。ただし、それらの考えや感情を神と結びつけることが重要なのです。詩篇が私達に教えることがあるとすれば、それは「私達は感情のすべてを主に持って行くことができる」ということです。そして、主は私達を拒絶するどころか、逆に深く愛してくださいます。

感情を主に持って行くべきもう一つの理由は、感情がしばしば(というより多くの場合)私達に嘘をつくからです。確かに、それらは本物の感情ですが、必ずしも正確ではありません。しかし、私達がそれを主に持って行くと、主はその感情の中にある真実を示してくださいます。私自身、悲しみを読み取るのが苦手です。私の悲しみは、たいてい怒りとして表れるのです。(これは男性にとてもよくあることです。)そして、時には女性が怒りを悲しみとして解釈することもあります。

私は何度も怒りを主に祈りの中で持って行きました。そして主は、「マーク、本当は怒っているのではなく、悲しんでいるのだ。泣く必要がある。」と語られました。そうすると、感情を押し殺すのではなく、それに向き合うことができるのです。もし皆さんが映画『インサイド・ヘッド』(ピクサー)を見たことがあるなら、感情と感情への反応がどのように役立つこともあれば、害となることもあるかがよく分かるでしょう。神は、私達が感情を押し込めることを望んでいませんし、他人にぶつけることも望んでいません。だからこそ、主に持って行く必要があるのです。「主よ、私は怒っています。混乱しています。恥ずかしいです。どうか、この感情を正しく扱えるよう助けてください。さもなければ、関係のない人にぶつけてしまいます。」ある牧師がこの箇所についてこう言いました。「毎朝、神とのテキストチャットを開くことから始めよう。」私達が友人とのチャットを開いたとき、一日中ノンストップでメッセージを送り続けるわけではありません(少なくとも、そうでないことを願います)。しかし、一日を通して自由にやり取りできる状態になっています。神もまた、私達がそのように、いつでも自由に対話できることを望んでおられます。

私はこの5年間、教室に向かって歩きながら生徒一人ひとりの名前を挙げて祝福を祈ることを習慣にしています。私は若い頃、すべてを自分の力で乗り越えなければならないと思っていました。しかし、神と共に歩むならば、神も私と共に歩んでくださることを学びました。生徒のために祈るとき、私はより良い教師になります。子どものために祈るとき、私はより良い父親になります。友人や妻のために祈るとき、私はより良い友人や夫になります。コインの裏側として、私達の多くは、神に属さない霊とテキストスレッド(特定の会話や話題をグループ化して話せる機能)やチャットを交わしてしまっています。その結果、あらゆる劣悪なものに自分を接触させてしまっているのです、それはやめにしましょう!


ちょうど一週間前のことです。朝、芦屋川駅へ向かって仕事に行こうと歩いていました。普通にまっすぐ歩いていたのですが、突然、ある男性が勢いよくぶつかってきました。私は体が大きいので彼は跳ね返されましたが、それでもかなりの衝撃でした。でも彼は一言も「すみません」とも「失礼しました」とも言わず、そのまま階段を駆け上がって行ってしまいました。その瞬間、私は本当に腹が立ちました。しかし、このメッセージの準備をしている最中だったこともあり、私は自分の「怒りのテキストスレッド」を削除する必要があると気づきました。その怒りは、私の一日にとって何の役にも立たず、ただ害になるだけだからです。私はまた、彼が私と反対方向の大阪に向かっていたことに、少し安堵しました。三宮方面ではなくてよかったと。しかし、皆さんはどんなテキストスレッドを削除するべきでしょうか。それがあなたの人生や、神との関係にとって健全でないなら、手放すべきではありませんか。それを主に祈り求めましょう。

神との最も重要な3つのコミュニケーション手段は、神の言葉を学ぶこと、祈ること、そして神を賛美することです。私達は、ルカ17章に登場するツァラアト(皮膚病)を癒された9人のようになってはいないでしょうか。彼らは主イエスの言葉を聞き、その通りに行動しました。癒されたことを喜び、祭司のもとへと駆けて行き、社会復帰をしました。私は何度この9人の癒された者のように振舞ったでしょうか、10人目の癒された者だけは違いました。彼は主イエスの言葉に完全に従うのではなく、立ち返り神に感謝を捧げました。彼の感謝と賛美に対して、主イエスはさらなる癒しを宣言されました。他の9人は皮膚病が治り、きれいになりましたが、この10人目の人は、皮膚病と心の癒しを受けたのです。このような癒しを受けるには、主イエスと御父を賛美することが必要です。そして、真に神を賛美するためには、聖霊を私達の人生、感情、希望、悩みの中に迎え入れることが必要です。聖霊は礼儀正しいお方です。私達が歓迎するまで待っておられます。さあ、聖霊を歓迎しましょう。


「あなたがたのうちに病気の人がいれば、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。」(ヤコブ5:14)ここで重要な言葉は「長老を招く」ことです。「長老のところに行く」のではありません。ヤコブは、すべての人が神と直接交わる個人的な祈りの機会を持っていることを明確にしています。私達は、神に近づくのに祭司や牧師、または主イエスの母マリアのような偉大な信仰者を必要としません。私達は、神ご自身によって、直接御前に行くように招かれています。しかし、ヤコブが病人に「長老を呼びなさい」と言っているのは、病気や弱さのために自分で行くことができない人のことを指しています。そのような時、教会の指導者たちは呼ばれ、共に寄り添い、助けるべきなのです。多くの場合、それは人生の最期の瞬間に行われます。そして、そのような時、私達は一人で耐えるように造られてはいません。私は牧師として、また信仰者として、最期の時を迎える人々と共に過ごすという神聖な特権を与えられてきました。あるとき、私は老人ホームで一人の女性を訪ねました。彼女は豊かな人生を歩み、今まさに天へと旅立とうとしていました。廊下では、彼女の成人した子どもたちが涙ながらに私に言いました。「母のために回復を祈ってください。」しかし、部屋に入ると、彼女は最初にこう言いました。「私の回復のために祈らないでください。私は主イエスのもとへ行くのです。」彼女が願ったのは、家族のための祈りでした。「私の家族が主に忠実であり続け、再び天国で会えますように。」私はそのために祈りました。そして翌日、彼女は家族に囲まれ、賛美の歌声の中で、平安のうちに旅立ちました。

私の祈りも同じです。「生きることはキリスト、死ぬことは益です。」しかし、何よりも、私は愛する者たちが私と共に、そして主イエスと共にいてほしいのです。長老を呼ぶことの重要な点は、それが神のご計画の一部であるということです。罪がこの世に入る以前、人間の最初の問題は「孤独」でした。創世記2:18で、神は「人が一人でいるのは良くない」と言われました。私達は初めから、関係を持ち、共同体を形成し、支え合うように創造されたのです。私達は、苦しむときに他人ではなく、キリストにある兄弟姉妹を呼び、祈ってもらうべきなのです。なぜなら、「正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。」(ヤコブ5:16)言い換えれば、「神と正しい関係にある人の祈りは、力強く実を結ぶ」のです。

ヤコブの言う「信仰の祈り」について、多くの誤解があります。私は「信仰の祈り」をする人なのかと聞かれたことがあります。彼らは、特定の祈りをする人が奇跡を起こせると信じていました。しかし、私はこう答えました。「確かに、祈ると何かが起こることがあります。でも、私は特別な人ではありません。そして、あなたもそうですよ。」申し訳ありませんが、もしあなたが救い主を探しているなら、私を見てもそれは間違った場所を見ています。私はただ、私達の信仰の創始者であり完成者である主イエスを御覧なさいと指し示すだけです。

聖霊の働きによって驚くべきことが起こるキリスト教の一部のグループがあります(神を賛美します)。しかし時には、こうした人々への最大の攻撃は「誇り(プライド)」です。自分が奇跡を起こしていると錯覚し、誇り高くなってしまうのです。人々は神ではなく、そうした人物を見上げるようになり、彼らに従います。かつて熱心に主に仕えたギデオンの道をたどるのです。最初は主のために彼は奮い立っていましたが、最後には神の働きではなく、自分自身をたたえる偶像を立ててしまいました。

では、どうすれば私達は「信仰の祈り」をする者になれるのでしょうか。それは、始まりの方(アルファ)から始まり、終わりの方(オメガ)で終わります。まず神の良く、完全な御心に自分を合わせることから始まります。信仰の祈りとは、自分や他人の願いをただ神に押し付けるのではなく、神が望んでおられることを求めて祈ることです。それは簡単なことではありません。

以前、離婚を経験している男性と知り合いでした。私は彼の元妻となる女性と会いましたが、その話し合いはうまくいきませんでした。一つ確かなことは、彼女はすでに前へ進み、新しい人生へと向かっていたことです。その男性はヤコブの手紙5章について誤った教えを受けており、私に「信仰の祈り」を神にささげ、妻の意志を覆すように求めてきました。しかし、神に祈ったとき、神は明確に「彼女が戻るように祈ってはならない。彼女はすでに去ったのだから」と語られました。神は代わりに「この男性がこの暗闇の時期を通過するように祈りなさい。彼がこの試練を乗り越えたとき、私は彼の面倒を見る」と語られたのです。私は彼に神の言葉を伝えました。しかし、彼は別の教会へ行き、自分の望む祈りをしてくれる牧師を探しました。しかし、その祈りは彼を傷つけ、かえって疑いや絶望を深め、彼が暗闇の中にとどまる原因となってしまいました。


学んでください。私達は祈る前に、まず神の元に行き、聖霊が私達の祈りを導くように求めるべきです。多くの人の祈りが意味のない繰り言に聞こえるのは、祈る前に神に導きを求めていないからです。もしあなたがジャングルを歩くなら、道案内を求めるでしょう。同じように、私達には聖霊という導き手がいます。しかし、多くの人はその導きを求めていません。神に「どのように祈るべきか」を求めるとき、私達は御霊との一致の中に導かれ、神が望むことを祈るようになります。その祈りこそが愛ある影響力を持つ祈りなのです。そして、その祈りの結果として御心がなされたなら、それは私達の力ではなく、神の御業であることを知るのです。驚くべきことが起こった時、時に起こります、私達の力ではなく、ただ聖霊に聞き従っただけであることを思い知るのです。


信仰の祈りとは、神の御心を無視して何かを成し遂げようとする魔法の呪文ではありません。それは神の御心に沿って祈るための祈りです。そして、神が私達に語られるとき、私達は「恵みの御座」に自信をもって近づかなければなりません。二心の者ではなく、「ですから私達は、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル 4:16)とある通りです。私達はまず神と心を合わせ、そこから祈るのです。旧約聖書に登場する偉大な預言者の一人、エリヤ。モーセと並ぶ預言者であり、主イエスが変貌の山でペテロ、ヤコブ、ヨハネの前にその真の姿を現されたとき、共に現れた人物です。エリヤはバアルの850人の預言者たちと対決し、やもめの息子を死からよみがえらせ、神によって炎の戦車に乗せられて天に引き上げられた偉大な預言者でした。しかし、ヤコブは教会にこう語ります。「エリヤは、私達と同じ人間でした。」(ヤコブ 5:17) しかし彼は神と心を合わせた人でした。ヤコブは、教会と信者たちにエリヤのように神と一致することを求めています。エリヤは祈りました。イスラエルの人々の罪のために、雨が降らないようにと神に願いました。神はその祈りを聞き入れ、三年半の間、雨は降りませんでした(列王記上 17-18章)。しかし、神の時が満ち、雨を降らせる時が来たとエリヤが悟ったとき、彼は山の上に登り、顔を地に伏せ、神に雨を降らせてくださいと祈ったのです。なぜでしょうか。それは、ヘブライ文化において雨は祝福の象徴だからです。エリヤはイスラエルの預言者だったのでしょうか。いいえ、そうではありません。彼は「主の預言者」でした。ただイスラエル出身であっただけです。そして、民の悪しき行いのゆえに、彼は神の御心に従い、神が祝福を差し控えられるように祈りました。それは、民が再び神の愛のもとへ立ち返るためでした。


最後に、ヤコブは、信仰や真理から迷い出た者を見捨てずに導き戻すよう私達に呼びかけています。私達の救い主が迷った一匹の羊を探し求めるように、私達もまた、その人を迎えに行き、連れ戻すように召されています。私の祖母は素晴らしい女性でしたが、辛い経験のために祖父とともに教会に通うことをやめ、神から遠ざかってしまいました。当時、クリスチャン、特にメノナイトは酒を飲んだりタバコを吸ったりしないと考えられていましたが、祖父母はそれらをしていました。祖母が住んでいた小さな町では、教会に属していないという理由で、一部の教会員は彼女と話すことすらしませんでした。

ある日(祖父から聞いた話ですが)、ある長老か牧師の妻が祖母をスーパーマーケットで見かけました。彼女は祖母のことを気にかけ、話しかけ、最後にこう言いました。「もし教会に来たいと思ったら、あなたが歓迎されることを覚えていてくださいね。」祖母は不安でしたが、その招きを受け入れました。きちんと身なりを整え、教会に向かいました。しかし、心のどこかで拒絶されることを覚悟していました。(祖父は「絶対に拒絶されるから行くな」と言ったそうです。)ところが、彼女を待っていたのは、まったく逆の光景でした。人々は温かく迎え入れてくれたのです。それから祖母は教会に通うようになりました。祖父は最初は教会に行きませんでした。彼は、自分は拒絶されると思っていたのです。しかし、祖母はまず人々との交わりを見出し、その後、神との交わりへと導かれ、60代になってから洗礼を受けました。その長老か牧師の妻(詳細ははっきりしませんが)は、天の御国で神の報いを受けたことでしょう。ただ、知人のひとりの女性を愛をもって迎え入れただけで。そして、私の頑固な祖父(彼自身の言葉です)は、祖母に対する教会の愛によって心を動かされました。やがて彼も教会に通い始め、キリストを受け入れたのです。祖母を招いた女性は、報いのことなど考えていませんでした。ただ、愛を必要としている一人の女性を見ていたのです。そして、今の時代も、私達の周りには愛を必要としている人がたくさんいます。


私の願いは、私が通うどの教会も、このYarrow(カナダ・ブリティッシュコロンビア州)の小さな教会のように、人々を歓迎し、コミュニティを広げ、彼らが神からのより大きな招きを感じ取れる場所であることです。祈りと人間関係において、神とともに働き、神に逆らわないならば、これまで見たことのない世界が開かれていくでしょう。


ヤコブ書からだけでも、あと7つは説教ができると思いますが、次の日曜日はマタイ8章に進みます。

このシリーズを通して、主イエスの兄弟であるヤコブの言葉によって、皆さんの信仰が強められたことを願います。ヤコブ書を一言でまとめるならば、「信仰の歩みは決して楽ではないが、神にしっかりとより頼み、本当に信頼するならば、意味と希望に満ちた人生が見出せる。」ということです。


祈りましょう。



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