雑多なキリスト教 2.0
- 1月19日
- 読了時間: 15分

雑多なキリスト教 2.0
ヤコブの手紙 1:5-18
説教者:Mark Bartsch牧師 神戸ユニオン教会 2025年1月19日
先週、試練についてお話ししましたが、今回はそのフォローアップとして、愛する人が痛みを伴う試練を経験しているときに、私達がどのように寄り添うべきかを思い出していただきたいと思います。ヨブの友人達の行動(ヨブ記2:11-13)から学びましょう。
彼らは友人の痛みを知っていました。多くの人が、自分の試練や困難を隠してしまいがちです。そうしないでください。シェアすることで、他の人がその重荷を一緒に担うことができます。
2. 彼らは友人のもとに行き、同情しました。試練の最中は、裁きや非難をする時ではありません。世の中はそれだけで十分に厳しいものです。
3. 彼らは心を示しました。ヨブを見たとき、彼らは泣き、衣を裂き、頭に灰をかぶりました。彼らの共感は、目に見える形で表されました。
4. 最後に、彼らはヨブと一緒に座り、過度なアドバイスや言葉で彼を圧倒しませんでした。時には、ただ一緒にいることが最善の行動です。
私達が試練を経験する時、私達には知恵が必要です。そして、試練を経験している人を支える時にも知恵が必要です。それは、世の知恵ではなく、神からのみ与えられる知恵です。ヨブの友人達の模範から学びましょう。
私達は引き続きヤコブの手紙から学んでいます。もし聖書の中で絶え間なく気性が散乱するADHDタイプの人々のため書かれているとすれば、それはヤコブの手紙でしょう。彼の話題は飛び跳ねます!それはカンザスに住んでいることを思い出させます。天気が気に入らなければ、5分待てばいいのです。わずか数節で、ヤコブの考えは何度も飛んでいきます。これは、慎重に議論を構築するパウロとは異なります。ヤコブは、知恵の話から信仰と疑い、それに富と貧困に対する私達の態度、そして試練への忍耐(先週取り上げた)と移り、そして誘惑の本質へと移ります。わずか数節で。それは少し圧倒されるように感じられます。ステファニーの私への批評の1つは、会話の中で、人々が話している主な話題から私がそれてしまうことです。彼女は時々優しく私に、「マーク、話題に戻りましょう」と言います。今日、私達はこれら聖句からヤコブが扱う3つの主なテーマを探ります。これらの洞察が、私のようにあなたの霊的な歩みを豊かにすることを祈ります。 祈りましょう。
「あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく…与えてくださる神に求めなさい…」 (ヤコブ 1:5)私は、ヤコブはここで間違った言葉を使っていると思います。それは「もし」ではなく「時」であるべきです。私達は皆、絶えず知恵を必要としています。私達は情報過多の時代に生きています。多くの人々は、情報を持っていることが知恵を持っていることと混同しがちです。両者は同じではありません。情報の量は毎年倍増していますが、私達の知恵は減少しているようです。知恵は事実を暗唱することではなく、知識を用いて識別力を発揮する、このことを理解することが知恵となるのです。聖書は、「主を恐れることは知恵の初め、」(箴言 9:10)と言っています。私は「主への畏敬の念」と言いたいです。知恵は、あなたの創造主と支持者を知ることから始まります。それは私達がすべての答えを持っているわけではないこと、そして真理と知恵の究極の源として神を認識することなのです。1コリント1:25「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」私達は情報が豊富ですが、知恵が不足しています。それは、強力なエンジンを持つ車だけどガソリンが入っていないようなものです。ドライブウェイでは高級車に目を見張りますが、全く役に立ちません。世界は私達に多くの選択肢を押し付け、すべてが良いわけでも、すべてが悪いわけでもありませんが、その膨大な量によって、私達の行動が麻痺して混乱してしまいます。デンマークの哲学者であり神学者であるセーレン・キェルケゴールは、キリスト教思想の枠組みの中で選択の概念について深い洞察を持ちます。彼は、神があなたにステーキを与えるとき、悪しき者はあなたに犬の糞を与えないという例を挙げ、代わりに、悪しき者はあなたに美味しそうなパスタ料理を提供します。そしてあなたは1つしか選ぶことができないために、かえってあなたを無行動に陥らせる可能性があるのです。私達は神が私達に指示している人生の選択が何かを知るための知恵が必要です。それは祈りの中でしか起こりません。
ヤコブは、「神に求めなさい」と言っています。私達はしばしば、間違った情報源に指導を求めます。私は神戸の外国人向けのバーにいて、男性がどうでも良いと思っている他の男性と深刻な人生の問題について議論しているのを耳にしました。彼らは「世俗的な意見」を提供しており、私は叫びたくなりました。「主の元に行け!主はあなたの歩みを導かれるだろう!」ヤコブは、最初に牧師の所に行くように言っていません。彼は直接主に頼るように言います。神に知恵を求めなさい、そして神は知恵を与えてくださるでしょう。他の信徒があなたのために祈ることも重要です。牧師や友人を介して神が語られることは素晴らしいことですが、最も強力な出会いはしばしば神からの直接のものです。そして神は語られます!時には、兄弟姉妹からの確認が必要ですが、最終的には、源である神ご自身に頼ってください。主イエスは、子供が父親にパンを求めれば、父親は子供に石を与えることはないと言います。子らが魚を求めれば、父は蛇を与えることはありません。この世の父親に私達が必要なものを乞うことができるなら、天の父に更にもっと寄り頼むことができるのです。時には、私達が求めるものが期待どおりに与えられないこともあります。しかし、私の経験では、神は私達が直面する課題を乗り越えるために必要な知恵を常に与えてくださいます。そして、神がすぐに答えられないとき、私達は待つことを命じられます。「主を待ち望む者は、その力を新たにするであろう」。私達の多くは、神が私達に力を与えてくださるのを待つのではなく、自分自身の弱さの中で問題に立ち向かおうと急いでしまいます。疑いの隙間風が心に混乱を招き、二心の者になりたくはないのです。私達は霊的なバランスが必要です。私はかつて、相撲力士にとって最も重要な資質は、力、スピード、技術、そして最も重要なのはバランスであると読んだことがあります。(身体的な例)人生において私達がバランスを崩すとき、倒れるのはいとも簡単です。御言葉にとどまりなさい!礼拝に来なさい!祈りなさい!他の信者と交わりなさい!笑いなさい!それらに圧倒されたと感じるとき、人生が不安定に感じられるとき、私は散歩して祈ります。それは私のバランスを取り戻すのに役立ちます。
「身分の低い兄弟は、自分が高められることを誇りとしなさい。富んでいる人は、自分が低くされることを誇りとしなさい。富んでいる人は草の花のように過ぎ去って行くのです。太陽が昇って炎熱をもたらすと、草を枯らします。すると花は落ち、美しい姿は失われます。そのように富んでいる人も旅路の途中で消えていくのです。」ヤコブが9節~11節で言わんとしている根本は何なのでしょう。エルサレムの初期教会も、コリントの教会も、そしてここ神戸の教会も、人々の個人の財務状況は広い範囲にまたがり異なっています。ある者は他者よりも多くを所有しています。ここでヤコブは、身分の低い兄弟の信仰と裕福な者の信仰を比較しています。ヤコブは、金持ちも中流も貧しい信者も、自分の人生を資産価値の視点ではなく、永遠の視点から見ることを望んでいます。金持ちが、自分の富が永遠の世界で何か報いをもたらすと考えているなら、それは完全に100%間違っている。薬を買うか食べるものを買うかという選択を時々祈らなければならない貧しい人は、お金のことを全く考えない人よりも、はるかに主を信頼する力が高いと言っています。彼らの信仰は、日常生活の中で信仰を実践しているからこそ強められているのです。彼は貧しい人にこう言いたいのです。「あなたの貧しさはこの世だけのものです。永遠のものではありません」。そして金持ちには、「あなたの富は永遠において何も買えない」と。カトリック教会の罪があります。16世紀、バチカンとサン・ピエトロ大聖堂(私はまだ行ったことがないが、行ってみたい)を建設するために、彼らは司祭たちに地獄の火と煉獄の苦しみを強調するように命じました。愛する人々を救うために、人々は贖宥状や献金(「地獄脱出無料券」または「ポイントカード」)で煉獄から抜け出すことができました。それは教会が行った恐ろしい、邪悪な、罪深いことです。そしてそれなりに効果があったのです。教会を分裂させ、莫大な資金を集めると同時に、プロテスタント改革に火をつけたのです。
主イエスが富について語った最も有名な物語(実際には2つ)の1つは、裕福な農夫に関するものです。神は彼の農場に豊かな収穫を祝福し、彼は新しい収穫に合わせて、ますます大きな倉庫を建て、自分の安全保障が富にあり、神との関係にはないと考えだしたのです。もう一度言います。彼は自分の安全保障が富にあり、神との関係にはないと考えたのです。主イエスは、その夜、神が彼を裁いたと言われました。主イエスは彼を愚か者と呼んだ。(ルカ12章)愚か者にならないように。もう一つの物語は、ルカ16章にあるラザロと金持ちの話である。金持ち(彼は無名)は、食べ残しを貧しい人であるラザロに与えるよりも、むしろゴミ箱に捨ててしまうことを好んだ。ラザロと金持ちが向こう側に着くと、金持ちは地獄(ゲヘナ)に行き、ラザロはアブラハムのいる場所(天国)に行ったのです。金持ちはまだラザロをまだ支配していると思い、兄弟達に警告するようにラザロに言ます。金持ちはラザロに天国を離れ(彼は賢いのでそうしません)、犬だけが彼の傷をなめる貧しい生活に戻り、兄弟達に警告するように言います。しかしながら兄弟達は貧しい人の言うことは決して聞きません、多くの人がそうでしょう。墓からよみがえられた救世主の声を聞かないのですから。
30年ほど前、私が通っていた教会では、地域の貧しい子供たちのためのコートドライブ(暖かい服を献品)を行っていました。私は必要なものを買うために(私は中古品店が好きです)中古品店で買い物をしていたところ、私達の教会の裕福な女性がコートを含む服を車から下ろしているのを見ました。それらは、大人用と子供用の両方で、非常に高価な、美しくスタイリッシュなコートでした。彼女は新しいコートを買ったので、古着は必要ないのです。それを見て怒り心頭。私はこう言いました。「あなたは何をしているんですか。あなたは、貧しい子供が暖かいコートを必要としているのに、1ドルあたり数セントをあなたは稼ごうとしているのですか。これは邪悪であり、間違っていますよ。あなたは主の赦しを請うべきです。なぜなら、あなたの魂は金持ちの人の隣で終わる危険があるからです。」私は彼女をひどく驚かせました。私は地獄の刑罰と滅びの説教者ではありませんが、この日はそうでした。なぜならそれは間違っていたからです。私は彼女の牧師でも何でもありません。私は単に、別の信者を責める信者でした。私達は皆、時々自分自身を吟味する必要があります。
「だれでも誘惑されているとき、神に誘惑されていると言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれかを誘惑することもありません。人が誘惑に合うのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。私の愛する兄弟達、思い違いをしてはいけません。すべての良い贈り物、すべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。この父が私達を、いわば被造物の初穂にするために、みこころのままに真理のことばをもって生んでくださいました。」(ヤコブ1:14‐18節)実践的なことから神学的なことまで、ヤコブは、神は人を誘惑しないと述べて、教会の信者たちを正しています。それは、神があなたを試練にかけないという意味ではありません。神は必ず試練にかけます。時には、神はサタンに私達を誘惑することをさえ許されます。正直に言うと、私はいつもそれをどのように理解したらよいのか分からずじまいで、ただ神が私の旅路について私よりもよくご存じであると信頼するしかないのです。
神が誘惑することを邪悪な者に許された最もよく知られている2つの例は、ヨブ記(聖書の中で最も古い書)とペテロです。最後の晩餐で、主イエスはさりげなくペテロに、サタンがペテロをふるいにかけるように頼んだことを知らせました。大したニュースではない。いや重要なニュースは、その中の明らかな鍵として主イエスがペテロに、「私はあなたのために祈った。」と言ったことです。そして主イエスは付け加えた、「あなたが立ち直ったとき、兄弟達を強めなさい」。サタンは驚くほど愚かです。彼は自分が争いに負けたことを知っています。十字架と復活によって、彼の敗北は永遠です。彼に残されたのは小さな戦いだけです。そしてあなたと私は彼の戦場です。彼は敗北したにもかかわらず、彼の唯一の勝利は、あなたと私を彼と悪霊たちと一緒に引きずり落とすことです。私達が悪魔の攻撃に直面するとき、私達は主イエスの血を私達の上に祈る必要がある。私はこれを過度に劇的に言うつもりはありません、いや現実味をもって言います。ほとんどの場合、私達は自分自身が一番の敵なのです。私達は聖霊が私達の過ちから学ぶのを助けてくれることを許さず、何度も何度もそれらを繰り返します。しかし私達が悪しき者の攻撃を受ける時があり、その時こそ私達はユダの獅子である神に、私達のために戦ってくださるように頼むのです。神に戻りましょう。あなたは神があなたを試していると感じるかもしれないし、そうかもしれない。しかし、「神が私を誘惑している」と言うことはできません。誘惑には、不健康なものや悪が含まれ、神はそれらの道具を使って働かれません。第一に、神はあなたを成長させるという目的を達成するために悪を使う必要はないのです。神はそんなことはしません。第二に、神は光であり、神には闇が全くないということです。(ヨハネの第一の手紙1:5)。さて私達の心には闇があり、主イエスは私達を麦といばらの混合物として描写します。警告します。いばらなぞないと主張する牧師や霊的指導者がいれば、彼らから遠くへ逃げなさい。彼らは嘘をついています。神だけが暗闇を持たないのです。神は愛だからです。(ヨハネの第一の手紙4:8)。そして、神は私達を愛しているので、私達を混乱の中に放置せず、私達が成熟することを望んでいます。
私達はこの聖句が好きです。「私達の格闘いは血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エフェソ書 6:12)それは真実です。一部のクリスチャンは、すべての茂みの後ろに悪魔がいると見、気に入らないものをすべて「霊的戦争」と呼んだりします。だがヤコブは私達をそんなふうに逃がしてはくれません。彼は、誘惑は内側から来るものであると言います。私達は私達自身の欲望によって誘惑されるのです。サタンはただ、私達がこだわることに便乗しているだけです。だから私達は「私達の欲望は聖霊の実と一致しているだろうか」と自問します。そうでないなら、魂を吟味する必要があります。覚えておいてほしいが、私は自分の心に闇があると言いました。それは、悪しき者が搾取しようとする場所です。誘惑するだけでなく、彼の目標は私を滅びに導くことです。
カインを見てみなさい。彼の物語(アダムとエバに続く2番目に古い誘惑の物語)は、私達すべてにとって良い教訓です。神はカインの礼拝に満足していなかったが、彼はそれをどのように修正すればよいかを彼に告げたが、カインは聞く代わりに、闇が彼の心と精神を支配する方を選んだのです。彼は、「競争相手がいなければ、神は私を受け入れざるを得ないだろう」と考えて、彼の兄弟アベルに襲いかかった。しかし、神はカインの心を見抜かれていました。「戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」(創世記4:7)。
これはヤコブのメッセージでもあります。私達は自分の心の闇に責任を持ち、神の光を射し込ませる必要があるのです。光は闇を追い出す。マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの言葉です。「闇は闇を追い出すことはできない。それができるのは光だけだ。」ヤコブは罪が誕生するというイメージを使います。その誕生には過程があり、時間がかかります。最初は、罪があることに気づかず、やがて罪が現れ始める。しばらくは隠せても、ずっとは隠せない。放っておくと、やがて罪は死を生むのです。
では、どうやってこの闇に立ち向かうのでしょうか。
1. 告白。先ほどはカトリック教会を否定的に言いましたが、今度は良い点を強調します。カトリック教会には告解室があり、罪を告白するのに必ずしもブースは必要ないが、声に出して苦悩を語ることに知恵があります。私にはキリストにある2人の兄弟がおり、彼らを時々懺悔者として私は使っています。私達はお互いに責任を持ち合っており、それがどれほど貴重なことか、いくら言っても言い過ぎではありません。誰があなたの責任ある行動を助けてくれますか?
2. 一人で行くな。ライオンは孤立した弱者を狩る。武装した狩猟者でさえライオンにはかなわないが、ライオンはたとえ子供の集団であっても襲いません。私達は皆、この聖句を知っています。マタイによる福音書18章20節「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる。」。西洋におけるキリスト教の衰退は、個人主義にその根源のひとつがあります。悪の餌食にならないように。
3. 自分の苦悩を神に訴えなさい。主よ、私は怒りに苦しんでいます」とか、「主よ、私は欲望にとらわれています」とか、何でもいいのです。話しなさい具体的に。そして、疑っていてはいけません。主イエスがペテロのために祈られたように、あなたが打ち勝つことができるように祈っておられることを知って、自信を持っていきなさい。そして、あなたが克服したとき、ペテロにそうしてくださったように、神はあなたのためにまったく新しい奉仕活動の領域を開いてくださるでしょう。
祈りましょう。
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