赦されること
- 3月23日
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「赦されること」
マタイの福音書 9:1-8
説教者:Mark Bartsch牧師 神戸ユニオン教会 2025年3月23日
今日、この聖句から皆さんに伝えたいメッセージは2つあり、1つはシンプルで、もう1つは少し深い内容です。最初のメッセージは、「良い友人になること」についてです。主イエスは弟子たちにこう言われました。「もはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべてあなたがたには知らせたからです。」(ヨハネ15:15)この物語の2つ目のメッセージは、たとえ癒しが起こったとしても、実は、癒しそのものが中心ではなく、この話の本質は、主イエスの権威と父なる神との一体性にあるのです。
私は良い友人でしょうか。父から教わった言葉があります。「良い友達が欲しいなら、まず自分が良い友達になりなさい。」私は自分が愛する人たちにとって良い友人でありたいと願っています。困難な時もそばにいる友人でありたいと思っています。箴言18:24は言います。「多くの友に関わる人は身を亡ぼす。しかし、兄弟以上に親密な友人もいる。」少し言い換えます。「知り合いが多い人は、かえって破滅に至ることがある。しかし、家族よりも親しい友がいる。」
マルコの福音書2章に出てくる4人の男性(女性が他人の屋根を壊すとは考えにくいので、男性と推測します)は、私達が目指すべき友人の姿です。昔も今も、良い友人でいることは簡単ではありません。時にはリスクを負い、難しい会話をすることも求められます。友人に必要な真実を伝えることも大切です。なぜなら、あなたが言わなければ、誰がその人に真実を伝えるのでしょうか。マルコ2章では、群衆であふれる家の前或いは後の入り口から入れなかった四人が、屋根に登り、そこを壊して友人を主イエスの前に降ろしました。その努力、埃、気まずさを想像してください。しかし、彼らにとって大切だったのは、主イエスこそが答えであるという信仰でした。あなたはどうですか。群衆からの質問を想像してみてください。「彼をどこへ連れて行くの」「彼は大丈夫なの」「何をしているの」2000年前の昔も今も、人は好奇心旺盛で人目を気にします。人々は傍観者でいるのが心地いいのです。この傍観が最初の障壁で、そこから一歩前へ出ようとしません。しかし、四人は群衆という障害を乗り越え、次の障壁へと向かいました。群衆があまりにも多くて主イエスのそばにたどり着けないのです。多くの人は主イエスに近づけないと感じています。 「主イエスの所には行けません。主も他の人と同じように私をゴミのようにあしらうでしょう。」 「主イエスに会えない。私は本当に善良じゃないもの。」 「主イエスにたどり着けない。正しい祈りの言葉を知らないから。」悲しいことに、本当に主イエスを必要としている人々は、これらの現実にある、そして見据える障壁のために、自分自身のことを話すのをやめる可能性が最も高いです。
こんな言葉があります。「神が導く所には、必ず備えがある。神が導く所には、養いがある。神が導く所には、守りがある。」この四人は友達を主イエスのもとに連れて行く間、神に導かれ、守られていました。そして彼らは「ノー」と言われても諦めませんでした。
「ノー」を諦めないといえば、KFC創業者のカーネル・サンダースは、自分のフライドチキンのレシピを1000以上のレストランに持ち込みましたが、最初に「イエス」と言われるまで諦めませんでした。なぜそこまで頑張ったのかと聞かれると、だって、自分のチキンが大変おいしいと知っていたから」(フライドチキンが食べたくなります)。しかし、皆さん、主イエスがどれほど善き方かを知っていますか。
ガラテヤ6:9は言います。「失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。」最初の障壁の兆候が見えるとあきらめるため、収穫を全く刈り取られないのです。諦めないで下さい。レースを完走しましょう。群衆でいっぱいのため入り込めないと分かると、四人は諦めずに屋根に登り、穴を開け、友人を主イエスの前に降ろしました。家の持ち主が驚いたことは想像に難くありません。その家の奥さんの様子を想像してみてください。主イエスの言葉を聞いている下の人々に落ちてくる破片など。ほんの数週間前、天井パネルが礼拝堂の外に落ちました。これは単なるパネルではなく、体を下げられるほどの大きさの穴でした。主イエスが見上げると、彼らの信仰が見え、中風患者に対する主イエスの対応を見ると、主イエスが見ていたのは四人の担架を運ぶ人々の信仰だったのだと思います。(私は間違っているかもしれません)もしかしたら、それは彼らの持つすべての信仰だったのかもしれません。彼らは友人を主イエスの前にそっと降ろしました。主イエスは彼らの信仰を見て、「あなたの罪は赦された」と言われました。すみませんが、それは彼ら四人が求めていた答えではなかったのです。KFCでピザやハンバーガーを注文しませんね。この病人は癒されたかったのです。ところが、主イエスは罪の赦しを宣言されたのです。そしてこの言葉がその場の人々を怒らせました。なんてことを言うのだ、イエス。ここは主イエスの故郷だったことを思い出してください。群衆はヨセフ(当時、イエスの父は亡くなっていたのだろう)を知っていました。群衆は、イエスが3歳の頃から成長を見届けた人たちです。なのに、ヤハウエである神のみが宣言できることをイエスは言ったのです。これこそ、神への冒涜だ。友人を主イエスのところに連れてきた四人は、明らかに主イエスが病人を癒すことを望んでいたのに、なぜ主イエスは彼らに「あなたの罪は赦されました」と言ったのでしょうか。主イエスは空気を読めないのですか。時々、自分の考えや計画にとらわれすぎて、他の誰にとっても明らかなことが見当たらなくなることがあります。ここではそうではありません。主イエスは肉体的な癒し以上に深い必要を見ておられたのです。
はい、主イエスは私達の肉体についても気にかけておられます。新約聖書には癒しに関する37回の具体的な言及があります。主イエスは私達の肉体を気にかけておられますが、もっと大切にされているのは魂です。実際、ほとんどの癒しは、主イエスが神とのより深い関係について教えるための機会です。私はこれを、歯医者に行って歯を白くすることに例えます。特定の目的で行きますが、歯医者があなたの歯を白くするために来ていることがわかると、深い虫歯が見つかります。もし歯医者があなたが望む歯を白くすることだけをして何も問題にせずに帰すなら、それは無責任です。主イエスはその人が虫歯を持っていることを見て、歯を白くすることに焦点を当てる代わりに、表面的な問題だけでなく、主要な問題を解決することを選んだのです。私達は、最後に歯が白くなることがわかりますが、それがその人が受けた主な祝福ではありません。カウンセリングでは、「提示された問題」(明白で表面的な問題)と「根本的な問題」(より深く複雑な問題)という概念があります。例えば、ある人がよく眠れないことを「提示された問題」としてカウンセラーに相談しに来たとしましょう。しかし、カウンセラーはその人が過去の未解決のトラウマを抱えていることを発見します。もちろん、カウンセラーはその人が眠れるように技術を教えることができますが、未解決のトラウマに対処しないのは無責任です。それを放置すれば、数ヶ月後にまた別の表面的な問題でその人は戻ってくることになります。
主イエスはその人の根本的な問題を見て、まずそれに対処されます。その人の罪が足を不自由にしたわけではありませんが、その罪、そしてこれはいくつかの教会では言いにくいことですが、主イエスにとってより重要な関心事でした。だから主イエスはそれを優先されました。はい、私達は外面的な人間をケアしなければなりません。マタイ25章はこれについて非常に明確です。誰かが寒いなら、上着を与えます。誰かが空腹や渇きを感じていれば、食べ物や飲み物を与えます。しかし私達は「生ける水」も与えなければなりません。すぐに、主イエスの「罪の赦し」の発言は群衆に受け入れられませんでした。3節では、ある律法学者たちが「この人は神を冒涜している」と言っています。ご存じの通り、「冒涜」とは主の名を汚すこと、あるいは神だけが持つ権威を自分で主張することです。これらの律法学者たちは、主イエスが神の権威をまじめに主張していると考えました。主イエスがイザヤ書(ルカ4章)から聖句を読んだとき、人々が怒った理由でもあります。彼らは、主イエス自身が神の権威を真剣に宣言していると考えたのです。律法学者たちは、罪の赦しは神だけができると信じていました。(その通りです!彼らは間違っていませんでした。)そして、主イエスは彼らが間違っているとは言いませんでした。彼らの思いを知った主イエスは言いました。「なぜ心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は許された』と言のと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」主イエスは、罪の赦しが神にしかできないことを知っており、この質問を彼らに投げかけます。主イエスは彼らの神学を批判しているのではなく、彼らが持っていた怒りと悪い思いに対して対峙しているのです。
そこで私は言いたいのです。私は多くの人々に出会いました、彼らは健全な神学を持っています。彼らと議論することはできません、なぜならそれは正しいからです。しかし、しっかりとした神学を持っている人々の中には、その神学を悪魔のように表現する人もいます。主イエスは本当の礼拝とは何かを言いましたね。それは「真理と御霊によって父を礼拝するときが来ます。」(ヨハネ4:23)です。はい、順番をわざと間違えました。私が話している人々は神を真理において礼拝します(問題はありません)が、彼らの霊はキリストのようではありません。彼らの霊は、むしろパリサイ人のようです。痛んだ葦を折ることもなく(イザヤ42:3)は、神学を純粋に保ちたいと思っています。しかし、私達の救い主は傷ついた葦を折ることはありません。私達は真理とキリストの霊をもって神を礼拝する必要があり、そうでなければ無意味なのです。
主イエスの質問「『あなたの罪は赦された』と言のと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」は少しひっかけのような質問です。技術的には、どちらも同じくらい難しく、どちらも神しかできません。しかし、主イエスは、これらの二つの発言のうち、どちらか一方だけがすぐに確認できることを知っています。罪の赦しの権威を証明するために、主イエスはその男を癒すことで自分の力を示します。さて、赦しについて、復活後、主イエスは弟子たちに現れ、そしてペンテコステの日には彼ら全員に、もちろん聖霊の導きで罪を赦す権限を与えました。誰かが罪の告白したとき、聖霊に導かれて私達が赦しを宣言することができます。
ヨハネ20:21-23で主イエスは言います。「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたのだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」聖霊に導かれて赦しを宣言することは冒涜ではありません。主イエスは律法学者たちに、彼が罪を赦す権威を証明する方法として、病人に床を持って歩くように命じるように挑んだのです。もしその人が歩かなかったなら、主イエスは自分が詐欺師であることを明らかにすることになります。実際、主イエスは自分を窮地に追い込んで、彼を知っている人や彼の家族に対して証しをしているのです。「しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがた知るために。」それで主イエスは言いました。「起きなさい、床を取り上げて、家に帰りなさい。」すると、その人は起き上がり、家に帰りました。(マタイ9:6-7)主イエスは律法学者たちの誤りを暴露しました。覚えておいてください、彼らの誤りは神学にあったのではなく、彼らが話しているお方を認識できなかったことにありました。彼らの誤りは、彼らが神の子である主イエス「起きて歩け」と言うだけでなく、罪を赦し、神との関係を回復する権威を持っていることを認識できなかったことです。
過去4週間、私達はマタイ8章と9章の一部を通して、主イエスが自分をどのように明らかにされたかを見てきました。主イエスが癒しの力を示し、皮膚病を癒すことで、私達の汚れが主イエスを汚すことはなく、主イエスが私達を清める力を持っていることがわかりました。百人隊長の話では、私達が想像できる以上の力を主イエスが持っておられることがわかります。船の中では、主イエスが嵐の中で平安をもたらす力を持っていることを学びました。そして今日は、主イエスが罪を赦すことによって私達と神の関係を回復する権威を持っていることを見ます。先週、主イエスが弟子たちを船で救った後、彼らは「この人は一体どんな人なのか」と尋ねました。さて、私はわかりません。主イエスを適切に定義にはめこめる枠組みはありません。しかし私は主と歩き、主と話すことで、主をもっと理解し、自分自身も知るようになっています。それが私達の信仰の美しさです。私達は歩き続け、尋ね続け、主イエスが誰であるかをもっと発見するように招かれているのです。
祈りましょう。
【質問】
マルコによる福音書2章の物語は、よき友であることについて私達に何を教えていますか。
主イエスは、麻痺した人を癒す前に、なぜその人の罪を赦すことを選んだのだと思いますか。
私達はしばしば、どのような障壁を作って主イエスのもとに行くことを妨げているのでしょうか。また、主イエスの恵みを経験するために、どのようにその障壁を乗り越えればよいのでしょうか。
罪を赦すという主イエスの権威は、主イエスがどのような方か、どのように考えますか。
マタイ9:1-8の箇所は、肉体的な癒しと霊的な回復の違いをどのような点で明らかにしていますか。
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