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試練の時の知恵

  • 1月12日
  • 読了時間: 12分



「試練の時の知恵」

ヤコブの手紙1:1-5

説教者:Mark Bartsch牧師 神戸ユニオン教会 2025年1月12日




コーヒー初心者の頃、ミルクと砂糖をたっぷり入れて飲んでいました。甘ければ甘いほどよいと思い、またそうしないとコーヒーが飲めませんでした。今ではインスタントコーヒーなどを飲むときだけミルクを入れています。良質な豆から挽いたコーヒーを飲むときはコクを味わいたいので、せっかくの風味を台無しにしないよう何も入れません。


「ヤコブの手紙」は濃いブラックコーヒーのようなものです。大胆で、フィルターでろ過されておらず、時に非常に挑戦的です。「山上の説教」と「箴言」を混ぜ合わせたような手紙で、迫害と試練に直面している教会に直接届けらました。


ヤコブの手紙を深く掘り下げていく上で、ヤコブのメッセージを甘くしたり風味を損なったりしないように心がけようと思います。皆さんと一緒にヤコブの言葉をじっくりと味わい、ヤコブに私たちを変えてもらいましょう。


これから6週間、私たちはヤコブの手紙を見ていきます。イエスの異父兄弟が書いたこの手紙を知ることは私たち皆にとって有益なものになるでしょう。イエスと同じ家庭で育つなど想像できますか。そして驚くべきは、イエスの33年の生涯の間、ヤコブはイエスがメシアであると信じていませんでした。


ヤコブの名前はヘブライ語では Yaakov(Jacob)ですが、英語ではギリシャ語の発音に沿ってJames(ジェームズ)と呼んでいます。

あだ名は「正義のヤコブ」でした。教会の記録によると、彼は富裕者にも貧者にも平等に接していました。最初教会を率いていたペテロが、宣教の地に行くよう召されていると感じてヤコブに後任を託してから、ヤコブは20年間エルサレムの教会のリーダーとして仕えました。ヤコブは、イエスの死と復活から、イエスがマタイ24章で予言した紀元70年の神殿の破壊までの時期に起こった大飢饉のような激しい動乱の時代に、初期の教会を率いていました。


前述したようにヤコブは異父兄弟のイエスを信じてはおらず、他の兄弟姉妹もイエスを信じていませんでした。マルコ3章で、イエスと弟子たちがイエスの家に行ったとき、イエスの家族(この時点でヨセフはすでに亡くなっていたと思われます)は、イエスのことを「正気ではない」と言いました。他の人々が、イエスは「悪霊に取りつかれている」と言った時、家族はイエスの味方をしませんでした。ですからもし皆さんが今までに侮辱されたり拒絶されたりしていたら、イエスの家族がイエスにしたことを思い出してください。ヨハネ7章5節ははっきりと言っています。「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである」。


(この部分は話さないかもしれない)

ここに大きな疑問があり、推測してみたいことがあります。ヤコブと他の兄弟姉妹はイエスより年上か年下かどちらだったのでしょうか。私はイエスが最年長だと昔から信じていましたが、兄弟姉妹がイエスに取る態度を文化的観点から見てみると、年少者が年長者に対して取る態度とは違います。

東方正教会では、ヨセフがマリアよりずっと年上で、すでに妻子がいた(ヤコブは子の一人)と考えています。これは憶測に過ぎませんが、旧約聖書の複雑な家族構成や、兄弟姉妹がイエスをどう扱ったかを見ると合点がゆきます。またヨセフの最後の登場が、イエスが12歳の時の神殿であった理由も説明できます。私はこの説を特に強く支持しているわけではありませんが、興味深いと思っています。しかしこれは推測であり、本当のところは天国に行くまで誰にもわかりません。


確かなことは、イエスの地上での宣教の間、兄弟姉妹がイエスを信じなかったことです。しかし十字架刑とその後の復活後、イエスは特にヤコブの前に現れました。「次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、……」(Ⅰコリント15:7)。ヤコブがメシアとしてイエスを信じ、生涯イエスに従うと誓ったのはおそらくこの時期だったと思われます。


さてヤコブに関する歴史と推測はここまでにして、次は本題に入りましょう。


ヤコブについては重要な事実をすぐに知ることができます。ヤコブの手紙で最初に自分のことを、「神と主イエス・キリストのであるヤコブ」と自己紹介しています。この「」はdoulos(δοῦλος) で、英語のservant(使用人)という訳語はあまりふさわしくありません。bondservant(奴隷)と訳した方が妥当です。当時は使用人には労働時間または期限が決められていました。しかしこのbondservant(奴隷)は死ぬまで、または死んだ後まで主人に仕えたいと望む人です。

この主従のつながりの愛は双方向です。


百人隊長が自分の僕を治してほしいとイエスに頼んだ時、百人隊長と僕の関係がこのようなものでした(マタイ8章)。僕は主人の家で命、愛、奉仕を捧げますが、それは主人に対する愛があるためです。ヤコブはイエスとの関係をそのように感じていました。またヤコブが教会に期待しているのもこのことでした。


イエスの「」であるヤコブは離散した12部族に宛てて手紙を書きました。故郷を離れるのがどういうことか今日ここにいる多くの人は知っています。

私は日本で生まれたわけではありません。37年前に一人の魅力的な女性に会うまで日本について考えたこともありませんでした。しかし今私はここに根を下ろしています。そして「なぜここにいるのですか」とか「なぜ日本に住んでいるのですか」と何度も何度も聞かれました。神がこの時のために私をここに置かれたのだと言う以外に、私は十分な答えを持っていません。そしてまた神はあなたをここに置かれました。神はあなたや私という種を蒔かれ、神の助けを借りながら神への愛の中で成長し、その愛を他の人と分かち合うよう求めておられます。


初代教会に対する激しい迫害(イエスを信じる者を石打ちの刑にするなど)と、イエスの死後その地域に起こった飢饉のため、イエスをメシアと信じるユダヤ人はエルサレムを離れ、その結果異邦人の世界に福音を広げることになりました。

イエスの死後の深刻な干ばつについては歴史の記録に残されています。(私が思うに、イエスの死で救い主の血を大地が吸った時、大地が反乱を起こして干ばつが起きたのではないでしょうか)。カインが殺したアベルの血が地面に流れた時、土が主に叫んでいたことを思い起こさせます(創世記4章)。


この上ない喜び


ヤコブの手紙で、最初の挨拶に続いてヤコブは、「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」(ヤコブ1:2)と書いています。 

こんなこと言うなんてちょっとおかしいですよね。誰も試練に遭いたくないし、愛する人にも試練に遭ってほしくないでしょう。しかし試練に直面するよりもっと悪いことがあります。それは成長しないことです。

死を目前にして弟子たちと最後の時を過ごしてパンを裂いた時、ペテロを試すようサタンがイエスに頼んだ、とイエスはペテロに言いました。もし私がその時のペテロだったら、「でもそんなことやめるようサタンに言ってくださったでしょう?」とイエスに聞いたことでしょう。しかしイエスはサタンにノーと言わず、サタンはペテロを試しました。ペテロがサタンの試みに遭う時、イエスはペテロのために祈っているとペテロに言いました。主の祈りほど力強いものはありません。ペテロが試練に遭って成長し、イエスが思っているような人物になるように、イエスは祈りました。そして言われました。「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)。

驚くべき言葉です。ペテロが失敗することをイエスは知っておられました。しかしその後ペテロは前より力強く立ち上がり、主にあって強くなり、兄弟たちを力づけるようになるということもイエスは知っておられました。


試練を自然な視点で見るか、霊的な視点で見るか


辛い経験を好きだというのは自然にはありえません。試練や困難や問題を喜びととらえることは自然にはありません。ですからヤコブ1章2節を超自然的、霊的な文脈でしか理解できません。この世の普通の視点で辛い経験を考えてみると、物事は最悪だと思うでしょう。霊的な視点で見てもやはり最悪なのですが、その背後にある目的が見えるので、つらい経験が無意味ではないとわかります。

使徒パウロはサタンから送られたとげを自然な視点からではなく、霊的な視点で見て次のように言っています。

「また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。 すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(Ⅱコリント12:7-9)。

パウロは攻撃がどこから来るのか(サタンからです)だけを見ているのではありません。すべての試練がサタンによる邪悪な攻撃というわけではなく、私たちが自分で招いた試練もあります。しかしもしあなたが神に介入してくださるよう頼めば、神はそういった試練をも使うことができます。パウロは神がどのように試練をお使いになるのか(パウロの慢心を止めるためでした)を垣間見て、最終的にはそのとげのおかげで神をより明確に見ることができるようになりました。すべてはパウロが、自然な視点からだけではなく、霊的な視点からも物事を見るようになったからです。


ここに教会の課題があります。私たちの多くが、試練や困難や問題を自然な視点からしか見ておらず、霊的な視点で見ることを拒んでいます。私たちは、ヤコブやパウロが私たちに求めているような視点で試練を見ていませんし、見ようともしません。これは難しいことです。

私は自分の学習障害について、神が何を教えたかったのか理解するのに20年から30年かかりました。私は自分の弱みについてますます喜んで誇りにしようと思います。そうすれば、キリストの力が私に開かれるかもしれないからです。


私の大好きな賛美歌に、H.G.スパフォードが歌詞を書いた有名な『 It is well in my soul (安けさは川のごとく)』があります。その中に、試練を経験するとは何を意味するのかを知っている男が出てきます。彼はシカゴ大火で財産を失いましたが、信仰を守り続けました。1873年イギリスで伝道集会を開く有名な伝道師を助けるために、妻と4人の娘を一足先に送り出しました。妻と子どもたちが乗った船は海上で他の船と衝突して沈没し、彼は4人の娘を失いました。一人ではなく4人全員です。妻は海上に浮かぶ残骸につかまっていたところを救助され、「救出一人」とだけ書いた電報を夫に送りました。スパフォードはイギリスにいる妻の元へ急ぎました。彼の乗った船が沈没現場付近を航行したとき、神がこの歌を彼に、そして私たちに送って下さいました。


When peace like a river, attends my way,  川の流れのような平和が私の道を行くときWhen sorrows like sea billows roll;    海のうねりのような悲しみが押し寄せるときWhatever my lot,              私がどんな状況にあろうとも

Thou hast taught me to say,         あなたは私にこう言うよう教えてくださいましたIt is well, it is well, with my soul.    すべて 安し 御神共にませばIt is well,                 すべて 安しWith my soul,                御神共にませばIt is well, it is well, with my soul.    すべて 安し 御神共にませば


スパフォードは娘を亡くして悲しみましたが、この喪失の中で主がどのように彼と妻を支えてくださったかを見ました。これはヨブの物語によく似ています。置かれた状況がどうであれ、神は私たちにIt is well(すべてよし)と言いなさいと教えられました。スタフォードが主を知ったのと同じように主を知るには、私はもっと成長しなければなりません。


ヤコブが「この上ない喜びと思いなさい」と言っているのは、このことだったのです。試練そのものを楽しむのではありません。正気の人はそんなことはできません。そうではなくて、試練からもたらされる実を喜ぶのです。「信仰が試されることで忍耐が生じます」。ヤコブは続けて言っています。「あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」(1:4)。神が私たちに望まれているのは、快適さより私たちの品性です。これはキリスト者にとって難しい課題です。神は、私たちがキリストとの関係をより完全なものにするよう成長してほしいと願われています。


知恵を求める


では試練に遭った時、私たちはどうすればよいのでしょうか。ヤコブは5節で答えています。「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます」。

知恵とは単なる知識ではありません。パウロやスタフォードのように、知恵とは、とりわけ試練の時に神の真理を人生にどう適用するかを知っていることです。神は私たちを非難せず、惜しみない知恵を与えてくださるという素晴らしい約束があります。神は私たちが知恵を持っていないからといって叱責することなく、私たちが神に頼るのを喜ばれます。


試練のただ中にいる時、私たちは自然な傾向として問題に集中し、自分で解決しようとしたり、また解決できないと絶望したりします。その時サタンが勝利し、あなたは試練を経験しても何の実りも得られません。しかしヤコブは私たちに神に目を向け、神の知恵を求めるよう言っています。神は始めから終わりまですべてを見ておられます。


試練は楽ではありませんが必要です。試練とは私たちの信仰が磨かれ、品性が形作られ、神への信頼が深まる炉のようなものです。ですからもし試練がやってきたら(必ず来ます)、試練から逃げたり何でもない振りをしたりしないでください。神から与えられる知恵と力を使って試練に立ち向かいましょう。神は私たちのために、また神の栄光のために私たちの中で働いておられると信じましょう。


試練に対応する知恵をどう得るか


  1. 日常の中での選択:神を敬う選択ができるように日々神に知恵を求める。ルターは毎日1時間祈るが、忙しい時は2時間祈ると言っています。

  2. 争いの解決:争いに対処する前に、穏やかに敬意を持って話せるよう神の導きを祈る。

  3. 人生の大きな問題:大きな決断を下す前に聖書を読む時間を取る。成熟した信仰者に助言を求める。


KUCの皆さん、試練の中でも神に寄り添う人でいましょう。私たちが「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人」となるよう神が精錬してくださると信じましょう。私たちは試練を耐え忍び、つらい思いをしますが、神の御手の中では決して無駄にはなりません。

みなさんが今週自分の試練に向き合う時、神の知恵を求め、神の目的を信頼し、神がともにおられると知って喜べますように。イエスにしっかりすがりついていれば、ペテロに約束されたように、イエスはともにいて私たちのために祈ると約束してくださいます。


祈りましょう。



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