混乱から希望へ──女性たちのイースター物語
- 4月20日
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混乱から希望へ──女性たちのイースター物語
ルカによる福音書24:1-12 神戸ユニオン教会
2025年4 月20日
最初のイースターは、晴れやかなお祝いから始まったわけではありません。私の家族では、「キリストはよみがえられた!(Christ has risen!)」と挨拶し、「まことによみがえられた!(He has risen indeed!)」と応じます。しかし、最初のイースターの朝は、暗闇の中で、悲しみと沈黙と不確かさに包まれて始まりました。
ルカはこう伝えています。日曜日の朝早く、マグダラのマリアと他の数人の女性たち、すなわちイエスに従っていた人々がイエスの墓に向かいました。彼女たちは、イエスの遺体に塗る香料を持って行ったのです。イエスを深く愛していたからこそ、彼女たちの心は打ち砕かれました。彼がメシアであると信じていたのに、残酷に殺されてしまったからです。イエスの身体が十字架上で命を失ったとき、彼女たちの希望も共に死んだのでした。
彼女たちは「お世話をするため」に来ました。「遅れても来ないよりはまし」という言葉を聞いたことがありますよね。きっと彼女たちは、十字架刑の直後にイエスの遺体をきれいにしてあげたかったのでしょう。でも、過越の祭りの安息日があったため、それは叶わなかったのです。男たちは日没前に急いでイエスの遺体を墓に納めましたが、急ぎ過ぎたために、十分ではなかったと女性たちは感じていたのかもしれません。だから今回は彼女たちは「きちんとした形」でイエスの遺体を整えるためにやってきたのです。
でも、ここでハッキリとさせておきたいのは、彼女たちは奇跡を期待していたわけではありません。彼女たちは「悲しみに暮れる」ために来たのです。「喪に服す」ために。もしかしたら、時間が経てば、神が心の整理を助けてくれることを願っていたかもしれません。でも、暴力、裏切り、不当な死刑など、ここ数日の不当な扱いを受けて、彼女たちはきっと麻痺状態だったでしょう。衝撃の中にいたのです。あるいはPTSDのような症状さえあったのかもしれません。
マルコによる福音書ではもう一つの詳細が記されています。彼女たちは、「誰が墓の石を転がしてくれるのだろう」と心配していました。とても現実的な問題ですが、そこにはもっと深い意味があります。それは自分たちが、どれだけ無力な存在かと感じていたかを示しているのです。想像してみてください。もう墓の近くまで来ていた時、誰かが突然思い出すのです。「あっ、石! あんな巨大な石、私たちじゃ動かせない!」と。
普通の人なら、引き返していたかもしれません。「どうせ目的を果たせないなら、行く意味がない」と。でも彼女たちは、それでも前進し続けたのです。
私はこれを関西国際空港まで行って、荷物もチケットも準備万端なのに、パスポートを忘れたことに気づいた時のようなものだと思います。突然、未来が不確かに感じられる。すべてが意味を失うのです。
皆さんはこんなふうに感じたことがありませんか? 神があなたを何かに招いておられると感じて、信仰を持って踏み出したものの、途中で「自分には無理かもしれない」と気づく瞬間。必要なものが欠けている、自分にはそんな能力が備わっていない、賢くない、霊的でない等、そんな思いがよぎることはありませんか?
でも私がこの物語の女性たちを心から尊敬するのは、そんな中でも彼女たちが「それでも前進し続けた」からです。悲しみの中で、混乱の中で、無力さの中にあっても、それでも歩みを止めなかった。そして、そこで、すべてが変わったのです。
もし、あなたが今、迷っていたり、不安だったり、自信がなかったりするのなら、それはあなたが聖徒たちの足跡を歩んでいるのです。「目に見えるものによらず、信仰によって歩んだ人たち」(コリント信徒への手紙 第二5:7)の足跡です。彼らが前に進んだのは、すべてが備わっていたからではありません。預言者も聖人も、誰一人として「すべてを備えていた」わけではない。それでも神に従いました。そして私たちも、神を信頼するなら、そうすることができるのです。なぜなら、私たちは自分たちの力だけでは到底足りないということを神がご存知だからです。そして、それで良いのです。
正直に言いましょう。SNSの世界では誰もが完璧に見えるかもしれませんが、神は私たちの本来の姿を見抜いておられます。
さて、女性たちがその朝早く墓に着くと、あの巨大な石はすでに動かされていて、入り口が開いていました。「神に感謝!」と言いたくなる場面です。なぜなら、彼女たちが抱いていた大きな不安は、到着前にすでに解決されていたからです。障害は取り除かれていた。それは良い知らせのはずです。
でも、実は彼女たちにとってはそうではありませんでした。少なくとも、まだその時点では。
これは私たち全員が心に留めておくべき「警告」です。それはイースターだけでなく、日々の信仰生活にも通じる普遍的な真理です。「心配事と問題の間を行き来してばかりいる時には注意せよ」ということです。
最初、彼女たちは「誰が巨石を転がしてくれるの?」と心配していました。けれど巨石が転がされているのを見た途端、「えっ、誰が動かしたの!?」とパニックになるのです。
コーリー・テン・ブームはこんな言葉を残しています。「心配事は明日の悲しみを取り除くことはないが、今日の力を奪ってしまう。」──これは私たちが人生に刻んでおきたい真実です。
恐れと混乱の間で揺れ動いている時、マルコによる福音書9:29でイエスが言われた言葉を思い出してください。「このたぐいは、祈と断食によらなければ、どうしても追い出すことはできない。」すべての問題が祈れば解決するわけではありません。でも、キリストを中心に据えていると、問題を「あるがまま」に見ることができるようになり、問題を実際以上に大きくさせてしまうことを防ぐことができるのです。
女性たちが恐れたのも無理はありません。1世紀の当時、墓荒らしは珍しくありませんでした。
盗賊たちは、指輪や宝石といった貴重品はもちろん、時には遺体さえ盗み出し、
遺族に身代金を要求することもありました。
あまりに深刻な問題だったため、皇帝クラウディウスは墓荒らしを「死刑に値する犯罪」と定めたほどです。
ですから、石が転がされ、墓の中が空になっているのを見たとき――
彼女たちの頭の中は一瞬でパニックになったはずです。
「どうしよう、今度は何が起きたの?」 ヨハネによる福音書は、マグダラのマリアがペテロのもとへ走り、涙ながらにこう叫んだと記しています。
「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません。」(ヨハネによる福音書20:2)
彼女の嘆きは、心の底からのものでした。十字架の苦しみと悲しみを乗り越えた直後に、今度はこの出来事…ですが、この直後にすべてが変わるのです。
ルカによる福音書はこう記しています。「すると突然、輝いた衣を着たふたりの者が、彼らに現れた」と。ヨハネの福音書では、天使たちは座っています。イエスの遺体が置かれていた場所で、その頭側と足側に、一人ずつ。
この描写は偶然ではありません。実は、ある「聖なるもの」を思い起こさせるのです。それは契約の箱です。
契約の箱の上には、二人のケルビム(天使)が、両端に向かい合って座っていました。そして、そのケルビムたちの間には「贖いの座」(Mercy Seat)がありました。
そこは、神の臨在が宿る場所であり、大祭司が年に一度、いけにえの血を注ぎ、人々の罪の贖いを行う神聖な場所でした。そこは、神と人が出会う場所。古い契約における交わりの中心地点でした。
考えてみてください。旧約聖書に出てくる「贖いの座(Mercy Seat)」のことを覚えていますか? あれは単なる金の蓋ではありませんでした。神の「正義」と「憐み」が出会う場所だったのです。でも、ここが大切です。今や、その「場所」は物ではありません。今の私たちの贖いの座は、イエスご自身です。イエスこそが、神と私たちが出会う場所。イエスこそが「道」であり、「真理」であり、「いのち」なのです。イエスこそが、正義と憐れみが出会う「場所」なのです。そして、あの空っぽの墓ですが、「盗まれた跡」なんかではありません。それは「勝利のしるし」です!憐れみが現れて、死を打ち倒し、踏みつけたのです。ちょうどイザヤ書の言葉通りです。43章19節にはこうあります。「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」神様は、まさに新しいことを始められたのです!
これは単なる美しい詩ではありません。
神様は、道がないように見える場所に、実際に道を切り開いてくださるお方です。ちょうど、イスラエルの民がエジプトから逃げるとき、前には紅海、後ろにはファラオの軍隊…逃げ場がない絶体絶命の状況。でも主は、そのときも「道なき場所」に道を備えられました。そして今、墓の石が転がされたのも、同じ神の「道備え」の現れです。
さて、墓の前に立つ女性たちの姿を思い浮かべてください。彼女たちはあまりの衝撃と恐れに、地にひれ伏していました。
でも、状況の本当の意味には、まだ気づいていませんでした。きっと天使たちも少し驚いたことでしょう。
天使たちは、こんな風に問いかけています。「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか?」(ルカ24:5)私たちも、人生の答えを求めるとき、よく間違った場所を探してしまいます。でも答えはこうです「そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。」(ルカによる福音書24:6)あの天使たちは、そして今も、天まで響き渡るように叫んでいるのです。「死は力を失った!死は敗北した!」と。
キリストの復活は、まさに「死に対する勝利の証」です。
死は刺し貫かれ、もはや私たちを支配することはできません。この質問、すごいですよね? これは非難ではなく、目を覚ますための呼びかけでした。天使たちは、イエスの弟子たちがちゃんと聞いていたと思っていたのです。彼らは悲しみではなく、喜びを期待していました。後悔ではなく、復活を。
それから天使たちはこう語り続けます。「思い出してください。人の子は罪人たちの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえらなければならない。」そして、そこにとても美しい静かな瞬間が訪れるのです。「彼女たちは、イエスの言葉を思い出した。」(ルカによる福音書
この女性たちは本当に勇敢でした。 彼女たちは十一人の弟子たちのもとへ戻り、最初の証人となりました。イエスが言ったこと、そして天使が確認したことをすべて伝えたのです。
興味深いのは、ヨハネによる福音書では、「バン!」と突然イエスがマリアの前に現れるところです。でもルカによる福音書では、少し違います。もっとゆっくりと、少しずつ物語が展開していきます。すべてが一度に見えるわけではありません。そして、それこそがルカの物語の力なのかもしれません。なぜなら、私たち自身の人生でも、光が突然差し込むというよりは、徐々に、ほんの小さな希望のきらめきが「もしかしたら、もっと何かあるかもしれない」と囁いてくるからです。もしかしたら、復活したイエス、キリストは、私のことも愛してくださるかもしれない。
再びその女性たちのことを思い出してください。彼女たちはすぐには復活したイエスを見たわけではありません。少なくともルカの記述ではそうです。彼女たちが目にしたのは空の墓、混乱した心、そして天使たちの言葉だけでした。でも「イエスの言葉を思い出した」とき、彼女たちの心が変えられたのです。
覚えていますか?
これは、旧約聖書の過越(すぎこし)の大きなテーマのひとつです。申命記6章20〜21節には、こう書かれています。
「後の日となって、あなたの子があなたに問うて言うであろう、『われわれの神、主があなたがたに命じられたこのあかしと、定めと、おきてとは、なんのためですか』。その時あなたはその子に言わなければならない。『われわれはエジプトでパロの奴隷であったが、主は強い手をもって、われわれをエジプトから導き出された。』 」 神は、イスラエルの民に「覚えていなさい」と語りました。
そして今も、私たちも「思い起こす」ように呼ばれているのです。天使たちが女性たちに「思い出しなさい」と伝えたように。
女性たちが弟子たちに「伝えた」ように。私たちもまた、思い出すべきです。私たちはかつて「奴隷」でした。
死の奴隷、罪の奴隷、神から切り離され、束縛されたまま生きていました。
しかし主は、その力強い御手によって、私たちをそこから救い出してくださいました。
まるでイスラエルの民が紅海を渡ったように、私たちも洗礼の水を通して、自由へと導き出されたのです。
後にトマスが疑ったのと同じように、男性の弟子たちは、最初は女性たちの話を信じませんでした。でも大切なのは、信仰を保ち、心の扉にほんの少しでも隙間を残しておけば、キリストの光が差し込んできます。それが突然の閃光のような体験になるかもしれないし、私のように、徐々に心が温められていくような経験をするかもしれません。でも光を受け入れるなら、神はあなたを束縛から救い出し、本当の命へと導いてくださいます。なぜなら、それこそがイエスの約束だからです。イエスは私たちに命を与えるために来られました。あふれるほどの命を。命こそがイースターで祝うものです!
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