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時間とは何か?

  • 2024年12月29日
  • 読了時間: 18分

The Persistence of Memory (1931) - by Salvador Dali
The Persistence of Memory (1931) - by Salvador Dali

The Persistence of Memory (1931) - by Salvador Dali


時間とは何か?

コリント人への手紙一7:29; ペトロの手紙二3:8; 詩編90:4, 39:5

説教者:トニー・ノフエンテ牧師 神戸ユニオン教会 2024年12月29日



聖書朗読箇所

コリント人への手紙一7:29[兄弟たちよ。わたしの言うことを聞いてほしい。時は縮まっている。今からは妻のある者はないもののように]

詩編90:4[あなたの目の前には千年も過ぎ去ればきのうのごとく、夜の間のひと時のようです。]

詩編39:5[見よ、あなたはわたしの日をつかのまとされました。わたしの一生はあなたの前では無にひとしいのです。まことに、すべての人はその盛んな時でも息にすぎません。]

ペトロの手紙二3:8 [愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。]


おはようございます。神は新しいものを与えるお方です。聖書は私たちに、神が「人生のメッセージ」を与えてくださると教えています。そして私たちがその「人生のメッセージ」を受け取ると、神は私たちに新しい人生を与えてくださいます。新しい人生が始まった後、神は私たちに新しい本質と命を与えてくださいます。そしていつの日か、聖書が言うように、神は私たちに新しい体を与え、新しい天と新しい地で永遠に神とともに生きることができるようにしてくださるのです。これらすべては、私たちが神を知ることから始まります。偉大なる神は、新年を与えてくださいます。そして、忘れてはいけないのは、「神は再出発の神」であることです。神は「再チャンスを与える神」であり、素晴らしい新しい年を私たちに届けたいと願っておられます。

本日のテーマ

今朝は「時間」というテーマについてお話ししたいと思います。題して、「時間とは何か?」です。新年を迎える時ほど、人々が時間について深く考えることはありません。聖書をめくれば、同じ考えや教え、聖霊からの指導が繰り返し述べられているのがわかります。しかし、今回の聖句である、コリント人への手紙一7章29節ではこう書かれています。「兄弟たちよ。わたしの言うことを聞いてほしい。時は縮まっている。…」。パウロはコリントの信徒たち(そして私たちにも)「時間の性質」について、「時間は短い」と思い起こさせています。聖書は、時間が短いと教えています。日々のスケジュールも、時間が限られていることを警告しています。カレンダーの一枚一枚をめくるたびに、時間は飛ぶように過ぎ去るのだと感じます。 

数年前、私たちは人間が新しいアイデアを発見する驚異的な速度、新しい医療技術の進展、そして科学における新技術について話していました。現代の生活を支える素晴らしい発見や驚くべき発明、便利な装置について話していたのです。もし私たちの祖父たちが、私たちが日常生活で使用している、全てのものについて聞かされても、信じることは出来ないでしょう。しかし、実際のところ、これらすべてについては聖書ですでに語られていたのです。私たちが生きている時代について、聖書は教えています。

今、私たちは「時間の崩壊」をかつてないほど目の当たりにしています。時間は私たちに押し寄せています。国として、世界として、教会として、そして個人として、時間は崩壊しつつあるのです。この間に多くの変化が起こりました。その中には驚くべきものもありますが、変わらないものもあります。それは「人間」です!聖書は、人の心が変わらないものであり、それは「何よりも陰険で、極めて邪悪」と語っています。人間のニーズにも変化はありません。イエスが地上を歩まれてから今日に至るまで、変わることのない人間のニーズがあります。それは、人生における目的です。そして、それはイエス・キリストだけが与えることのできる、自分自身を超えた力です。

私たちは聖書から、神が変わらないお方であることを学んでいます。神はこう言われます。「わたしは主である。わたしは変わらない。」そして実際、神は過去にも、これからも変わられることはありません。聖書には「とこしえからとこしえまで、あなたは神です」と書かれています。

救いも変わっていません。それは今もなおイエスの血によるものです。それは十字架の道を通じて与えられるものであり、新しい人生によって与えられるものです。これからも決して変わらない事柄があるのです。しかし、重要な点は、私たちの「時間が短い」ということです。

今朝は、「時間」についての3つの真実を皆さんと分かち合いたいと思います。

I. 時間の短さ

時間が短いことについて考えるとき、いくつかの視点を持つ必要があります。まず最初に、時間の短さについて考えなければなりません。それは真実だからです。時間がどれほど早く過ぎ去るように感じられるか、気づいたことはありますか?時間がいかに早く進んでいくか、経験したことはありますか?私がイエス・キリストを救い主として受け入れたのは、まるで昨日のことのように感じます。そして私は今でも神を賛美しますし、私自身が最期に息を引き取るまでそうするでしょう。しかしながら、考えてみると、私がイエス・キリストを受け入れたのは半世紀以上前の話なのです。時間は本当にあっという間に過ぎ去るように感じられます――これが「時間の短さ」です。

聖書はこう語っています。

「あなたはわたしの日をつかのまとされました。わたしの一生はあなたの前では無にひとしいのです。」(詩篇39:5)

また、「あなたの目の前には千年も過ぎ去ればきのうのごとく、夜の間のひと時のようです。」(詩篇90:4)

さらに、ペテロの手紙第二 3:8にはこう書かれています。

「愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。」

そして詩篇90:10では、

「われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。」と記されています。

これは、神が平均的な人に約70年の人生を与えてくださることを意味します。

70年という時間は非常に短いことを覚えておく必要があります。それは本当に一瞬です。実際、私たちはそれをあっという間に通り過ぎてしまいました。そして、私たちは通常その時間をどのように使うのでしょうか?最初の15年間は、子供時代と青年時代に費やします。中にはその青年時代が長引く人もいます!その後、約20年を睡眠に使います。そして最後の5年間、多くの人は身体的な制約によって活動が制限されます。こうして、実際に成人として活動的に生きられる時間はおよそ30年になります。しかし、その30年の中で、食事に費やす時間(これが多い人もいます!)、睡眠時間(人によっては睡眠時間を捻出しないといけない方々もいます)、そして所得税の計算に費やす時間を差し引くと、実際に残るのはおそらく15年ほどです。さらに、そのうち平均的な人は7年をテレビを見て過ごします。それを考慮すると、実質的に7~8年しか自由に使える時間は残りません!

パウロは「時は短い」と述べました。そして、この短い時間の本質について私たちに教えました。イザヤはこう言っています。「わがすまいは抜き去られて/羊飼の天幕のようにわたしを離れる。」(イザヤ書38:12)この「時は短い」という言葉は、時間の短さだけでなく、それが私たちに何を語りかけているかについても重要な意味を持っています。それは…

II. 時間の制約

聖書はこう語っています。「今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。」(エペソ人への手紙5:16)私たちは「時代の悪さ」について何時間でも話すことができるでしょうが、皆さんはすでにそのことをよく知っています。ニュースを聞くだけでも、時代が悪いことがわかります。新聞を読むだけでも、時代が悪いことが伝わってきます。聖書もまた、私たちが生きるこの悪しき時代について語っています。最近のパンデミック、暴力的な抗議活動、破壊的な暴動、銃撃事件、薬物乱用、罪のない赤ちゃんの殺害、明白な嘘、神が定めた性別や男女間の結婚制度への蔑視、LGBTQの取り組み、強姦、放火――これらすべてが時代が悪いことを物語っています。しかし、聖書は「時を取り戻しなさい」と命じています。これは、時間が緊急であることを私たちに告げています。

私たちは与えられた時間を大切にし、それを意義あるものにするよう求められているのです。この悪しき時代の中で、時間を無駄にせず、神のために有効に使うように努めることが重要です。

「redeem」という言葉は、「取り戻す」という意味です。もし、私たちが悪い時代の中で「時間を取り戻す」必要があるとすれば、それには代価が必要だということです。使徒パウロはこう言っています。かつて私たちはこの世の流れに従い、肉と心の欲望を満たして生きていました。それは、自分のしたいことをして生きていたということです。しかし今や、私たちはその古い生き方を終わらせています。それはもはや「自分がしたいこと」や「他人が望むこと」ではなく、「神が望むこと」を行う人生です。それが「御心が行われますように」という祈りの意味です。

イエス・キリストも、私たちと同じく一日24時間という時間を持っていました。しかしイエスはこう言いました。「ほかの町にも行かねばならない。そこでも福音を宣べ伝えねばならないからだ。」また、「私は父の仕事をするためにここにいる」とも言いました。イエス・キリストの生涯には、常に「緊急性」がありました。イエスは一瞬一瞬を大切にし、意味あるものにしました。それでも彼の人生には、平安と静けさがありました。これは、イエスが時間の緊急性を理解しつつ、神の御業に心を集中していたからです。私たちも同じようにすべきだと信じています。時間の大切さ、そしてそれをどのように神のために用いるべきかを理解し、実践していきましょう。

ある人がこう言いました。「私たちは勝利を祝うための永遠を与えられるが、それを勝ち取るためには日暮れまでの短い時間しかない。」神に仕える時は今です。キリストに完全に献身する時も今です。なぜなら、時間には限りがあるのです。

子どもの頃、私たちが笑ったり泣いたりしていたとき、時間はゆっくり進みました。青年の頃、夢を語り合っていたとき、時間は歩いていました。さらに年を重ねると、時間は飛ぶように過ぎ去り、大人になると時間は走り出しました。そしてやがて、旅路を進むうちに、時間は消えてしまうのです。

歴史上の人物の言葉もまた、時間の大切さを教えています。

ベンジャミン・フランクリンはこう言いました。「人生を愛するなら、時間を無駄にするな。時間こそが、人生を形作る素材だからだ。」

また、アメリカの歴史家であるダグラス・サウソール・フリーマンはこう語っています。「時間は取り替えのきかないものだ――それを無駄にするな!」

しかし、最も力強い言葉は、イエス・キリストが語られた言葉です。ヨハネ4:35でイエスはこう言われました。

「あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。」

2024年12月29日、今、ここで私は言いたいのです。時間には限りがあります! イエスはこう言われました。「時間はいつまでも続くわけではない。神の働きのために熱心になるのを後回しにしてはならない。」畑はすでに色づいています。

兄弟姉妹の皆さん、世界は福音を求めて叫び声を上げています。そして、神は今日、私たちの教会(KUC)に向かって「時間の制約」を伝えておられます。時間は短いのです。

今日、キリストにあなたの人生を捧げていないならば、時間に限りがあることを知ってください。聖書は、時間の制約が私たちに今語りかけていると教えています。もしまだイエス・キリストに人生を捧げていないならば、もし神なしで永遠を過ごすことを望まないならば、もし地獄に行くことを望まないならば、どうか、今朝の礼拝の最後に私と一緒に祈ってください。時間は刻一刻と過ぎ去り、その決断を後回しにすれば、すぐに手遅れになってしまいます。

時間には短さと制約があるだけでなく、次に続くテーマもまた重要です。それは…。

III. 時間が教えるメッセージ

時間は、他の何ものも教えることのできない教訓を私たちに教えてくれます。まず第一に、時間は私たちに「冷静な内省」を与えてくれます。一年を終えるとき、私たちはその一年を振り返り、その年について考え、神が私たちの人生に対して持っておられる御心の光に照らして評価すべきです。

この時期、多くの店では棚卸しをします。同じように、私たちも自分の人生を棚卸しするべきです。信仰者として、私たちは自分の歩みを振り返り、神が私たちに新しい年を与えてくださったことを認識するべきです。神は私たちに新しい始まりを与えてくださっています。過去の失敗や2024年の成功に関わらず、これらの経験を振り返り、そこから学び、次に進むべきです。それはすべて、神の栄光のために行うべきことです。この内省を通じて、私たちは神が与えてくださる新たなチャンスを生かし、さらに神に近づくことができます。

ある女性がこう言いました。「私は新年の夜の礼拝に出席しません。それはいつも自分が1歳年を取った気持ちになるからです。」しかし、私たちが礼拝に出席しようとしまいと、新しい年が始まり、私たちは1歳年を取ります!重要なのは、神が私たちに新しい年を与えてくださったということです。この時期、私たちは自分の人生を振り返り、自分自身を振り返り、イエス・キリストとの関係がどこにあるのかを確認すべきです。それは「冷静な内省」の時であるべきです。

時間の時計は止まらず進み続けます。どれほど敬虔で賢明であっても、時間を1秒たりとも戻すことはできません。過去を変えることはできません!しかし、私たちは過去から学ぶことができます。そして、それを通して「冷静な内省」をするのです。

自分自身への問いかけ

昨年、神のために成し遂げたい自分になれましたか?

霊的な目標を達成できましたか?

恵みの中で成長しようと思った通りに成長できましたか?

祈りの生活は理想の形でしたか?

キリストに導きたいと思った人々を救いへと導けましたか?

これらを振り返りましょう。

これは「冷静な内省」の時であると同時に、「真摯な悔い改め」の時でもあります。聖書は、これが新しい始まりの時であると教えています。悔い改めは、新しい方向性を見出すことです。悔い改めは「変化」を意味します。それは、新しい清らかな始まりを意味します。

2024年を終え、2025年を迎えるにあたり、神の中で私たちはすべてを一掃し、新しいスタートを切ることができます。ちょうど机の上のカレンダーを1日ずつめくり、過ぎ去った日をちぎってゴミ箱に捨て、新しいページを迎えるように、私たちも新しい年を神の力によってスタートさせる事ができるのです。

2024年にどんな過ちを犯し、どんな失敗を経験したとしても、それを気にする必要はありません。2025年は新しいページ、新しいチャンスです。この朝、主イエス・キリストのもとに来ることができることを心から神に感謝します。イエスは新しい始まりの神です。過去がどのようなものであったとしても、それが良いことであれ悪いことであれ、得たものであれ失ったものであれ、それらを神の「覚えないことの海」に投げ入れ、イエス・キリストの血のもとに置き、前に進むことができます。

使徒パウロは、自分が望んだすべてを達成できたわけではないと述べました。しかし、彼はフィリピ人への手紙3:14でこう語っています。

「目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」

パウロは「過去のものを忘れる」と明言しました。真摯な悔い改めとは、神が私たちの罪を忘れてくださるだけでなく、私たち自身もそれを忘れることを意味します。神の恵み、愛、そして憐れみの中で、過去の罪や失敗を背後に置き、それをあたかも起こらなかったかのように扱い、前進するのです。

聖書は、神が私たちの罪を赦されるとき、それを海の深みに埋められると教えています。そしてそこには「釣り禁止」の看板が立てられ、悪魔も私たちもその罪を掘り返すことはできません。私たちはそれを過去のものとして扱い、忘れるべきです。使徒パウロも同様でした。彼は少なくとも以下の3つのことを忘れました。

1. 過去の罪悪感を忘れる

パウロは過去の罪悪感に囚われることをしませんでした。彼は「罪人の頭」として、クリスチャンを迫害した過去を持っていました。それでも、彼は神の赦しを求め、その後はその罪を二度と神の前に持ち出しませんでした。彼は過去の罪悪感を置き去りにし、前進しました。

2. 過去の恨みを忘れる

パウロは多くの敵を持っていました。彼を批判し、非難し、彼の働きを貶めようとした人々がいました。「彼は真の使徒ではない」と言う人々もいました。それでも、パウロは「後ろのものを忘れる」と言い、これらの過去の恨みを置き去りにしました。

兄弟姉妹の皆さん、私たちが神が与えたいと願う年を生きたいと思うなら、過去の恨みを忘れる必要があります。これが兄弟であれ、キリストを信じない者であれ、誰に対するものであっても同じです。過去の恨みを抱えることは、機械に砂が入り込むようなものです。それは私たちをすり減らし、破壊し、神が望む自分になることを妨げてしまいます。

3. 過去の栄光を忘れる

パウロは、過去の成功や栄光にも執着しませんでした。彼はエペソでの素晴らしい働きや、コリントでの苦労を語ることができました。多くの教会を設立し、素晴らしい成果を上げました。しかし、彼は過去の栄光に浸ることなく、「私は標を目指して進み続ける」と語りました。悔い改めとは、方向転換です。過去の罪や恨み、栄光に囚われるのではなく、新しい方向に進むことです。悔い改めは新しい始まりを意味します。時間は私たちに、真摯な悔い改めの価値を教えてくれます。

また、時間は私たちに「冷静な内省」や「真摯な悔い改め」だけでなく、「真剣な決意」を教えてくれます。

使徒パウロはこう言いました。「私の決意は、神がキリスト・イエスにおいて与えてくださる高い召しの賞を目指して、標を目指して進み続けることです。」

パウロはキリストへの奉仕について明確な決意をしました。彼はこう述べています。

  • 神の最善以外は受け入れない

  • 聖霊に満たされた人生以外は受け入れない

  • 勝利の中を歩むこと以外は受け入れない

  • 神が私に備えておられるすべてを受け入れる

そして彼は、「その標を目指して進む」と語りました。「時間は短いので、これまで以上にイエス・キリストに仕えたい」と決意したのです。

ヨシュアもまた、神への奉仕について真剣な決意を示しました。イスラエルの民の前で彼はこう宣言しました。「もし他の神々に仕えることを選ぶなら、それを選びなさい。しかし、私と私の家族は主に仕える。」

私もまた、私の妻と家族と共に、神が私たちを天に召されるその日まで主に仕え続けることを心に決めています。

結論

新しい年を迎えるにあたり、あなたはそのような決意をする必要があるでしょうか?イエス・キリストへの奉仕についての決意をする必要がありますか?神の最善を選び、それを目指し、神があなたの人生に備えている最善を受け取るという決意をする必要がありますか?そして、主イエス・キリストへの奉仕についても同じ決意をする必要がありますか?

教会員の皆さん、もし今朝ここにいるこの信仰者たちが、イエス・キリストへの奉仕について心からの決意をしたならば、来年がどのような年になるかお分かりですか?私たちが「私は上に向かって進み続ける。毎日新たな高みを目指している」と自分に語りかけ、その勝利をキリストの中で生き始めたならば、2025年に私たちは何百人もの人々をキリストに導くことができるでしょう。2025年は勝利の年、リバイバルの年、征服の年、そして神が神戸ユニオン教会を通して望んでおられるすべてを成し遂げるために前進する年になるのです。

そして、KUCの出発点として、救いについての決意をする必要がある人もいるかもしれません。まだイエス・キリストに人生を捧げたことがない人がいるかもしれません。もしかすると、「2024年のどこかで人生を変えよう」と考えたことがあるかもしれません。しかし、イエスを心に迎え入れるまでは、あなたの人生は決して変わりません。

多くの人がクリスチャンとして生きたいと思っています。神が望む自分になりたいと願っています。そして「その生き方ができるようになったら、イエスに人生を捧げる」と言います。また、「偽善者にはなりたくない…決意してもそれを守れないのは嫌だ」とも言います。しかし教会の皆さん、残念ながら、その考えでは決してキリストに来ることはできません。そして、その生き方をすることもできません。聖書は、私たちの誰もその生き方を実現することはできないと教えています。それができるのは、イエス・キリストだけです。キリストだけが私たちの中でその生き方を成し遂げることができます。だからこそ、キリストのもとに行き、人生を捧げ、そこから始める必要があるのです。

昔話にこんな話があります。ある旅人がオリンポス山に向かう途中、道に迷いました。そして道端にいた哲学者に「オリンポス山へ行くにはどの道を行けばよいですか?」と尋ねました。哲学者はある方向を指さしました。しかし、その若者は遠くを見つめ、「どうやったらそんな遠くまでたどり着けるだろう?」と言いました。哲学者は答えました。「その山にたどり着く方法は、一歩一歩確実にその方向へ進むことだ。」

兄弟姉妹の皆さん、天国への道、栄光への道も同じです。それは、一歩一歩をその方向に進むことです。そして今日、あなたが最初の一歩を踏み出す必要があります。「私はイエス・キリストを信仰によって受け入れ、人生を捧げます」と決心することです。イエスを信じ、イエスに従い、イエスのために生きることを決めるのです。時間には限りがあるのです。今がイエスを信じる時です。聖書は言います。「今日こそ救いの日、今こそ恵みの時である」と。

目を閉じて、もし2025年に向けてこの決意をしたい方がいれば、手を挙げてください。そして、私の後に続いて祈りを捧げてください。

愛する神様、私は罪人であり、あなたに背いてきたことを知っています。私はイエスが私の罪のために死んでくださり、その死と復活を信じる信仰によってのみ赦されることができると信じます。私は今、罪から離れ、イエスに私の罪を赦していただき、私の救い主、主として心に迎え入れていただきます。この日から、私はイエスに従うことを選びます。愛してくださり、赦してくださったことを感謝します。イエスの御名によって祈ります。アーメン。

祈りましょう

天の父なる神様、美しい新年を与えてくださり、再び始めることができるこの時を感謝します。新しい決意をし、新たなスタートを切ることができることを感謝します。

父なる神様、今朝ここにいる中には、昨年を振り返り「こうしていればよかった」「ああすればよかった」と感じている方々がいます。

愛する神様、どうか今日がその古いページを破り捨てる日となりますように。今日が真摯な悔い改めと新たな始まりの日となりますようにお祈りします。

そして神様、私たちが新しいスタートを切るときに、これから与えられる勝利に感謝します。2025年という新年を始めるにあたり、どうかここにいるすべての方々を祝福してください。

イエス・キリストの栄光と誉れのために、この朝決断すべきことがなされますように。アーメン!





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