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嵐の中で主に信頼する

  • 3月16日
  • 読了時間: 11分

更新日:4 日前

「嵐の中で主に信頼する」

マタイの福音書  8:23-27

説教者:Mark Bartsch牧師 神戸ユニオン教会 2025年3月16日


今日は、マタイの福音書を主要な聖書箇所として使いますが、マルコの福音書からも少し引用します。

多くの人は、太陽が輝き、海が穏やかで、人生が順調なときにはイエスに従おうと熱心になります。北アメリカでは、こういう人々を「フェアウェザー・ファン(都合の良いときだけ応援するにわかファン)」と呼びます。彼らは、特にスポーツに興味がないのに、勝っているチームのユニフォームを買って応援するような人たちです。

数か月前、ある男性がパデュー大学のフットボールの帽子をかぶっているのを見かけました。(ちなみに、パデュー大学は素晴らしい大学ですが、フットボールチームは惨憺たるありさまです。)私は「いい帽子ですね」と声をかけました。すると彼の顔がパッと明るくなり、「パデューが好きなんですか?」と聞かれました。私は「いや」と答え、自分の応援しているチームはペンシルベニア州立大学(ペン・ステート)だと伝えました。その後、彼と話すうちに、彼は自分のチームが強くなくても愛していることが分かりました。彼はにわかファンではありませんでした。しかし、多くの人はそうなのです。

人生においても同じことが言えます。すべてが順調なときは、人は現状に留まります。しかし、嵐が来ると、人々は去っていきます。放蕩息子はお金があるときは友人がたくさんいましたが、お金が尽きると、誰もいなくなりました。では、嵐が襲ってきたとき、どうなるでしょう?人々は留まるのか、それとも去っていくのか?


ヨハネの福音書6章では、イエスが「わたしは命のパンである」と宣言した後、約6000人の人々が去って行きました。(イエスは、早朝一番、メガチャーチを散らしてしまったのです)そのとき、イエスはペテロに向かって「あなたも去って行くのか?」と尋ねました。するとペテロは、「主よ、私達は誰のところに行けるでしょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と答えました。ペテロは、それが難しい教えであることを認めましたし、去りたいと思わなかったとは言っていません。ただ、「あなたの外には命がありません。あなたこそが、今日だけでなく、すべての日のための命の言葉を持っている」と言ったのです。


マルコの福音書4章36節には、興味深い記述があります。「そこで弟子たちは群衆を後に残して、イエスを舟に乗せたままお連れした。ほかの舟も一緒に行った。」この「ほかの舟」もイエスと弟子たちとともに旅を始めましたが、嵐の後には一切言及されていません。まるで人生のようではないでしょうか?私達はこういう人々を「フェアウェザー・フレンド(都合の良いにわか友人)」と呼びます。そして、残念ながら「フェアウェザーなイエスのにわか弟子」もいるのです。

パウロはローマ人への手紙1章16節でこう言っています。「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。」使徒パウロについて言えることは多くありますが、彼は決してにわか信仰者ではありませんでした。彼は自分の「肉のとげ」に苦しみながらも、主にしっかりと留まりました。イエスは、にわか信仰者について、マタイの福音書13章で、種まきのたとえを用いて説明しています。彼らはすぐに芽を出すが、太陽(困難)が照りつけると枯れてしまう種のようだと。嵐は、私達の本当の姿、そして周りの人々の本当の姿を明らかにします。正直に言うと、嵐の中で自分自身の姿を見て、がっかりすることもあります。チャールズ・スポルジョンはこう言いました。「私は、自分を『いのちの岩』(イエス)へと投げ飛ばす波に感謝することを学びました。」私自身の60年の人生経験から言えることは、最善の対応はイエスを信頼することです。嵐は私達を滅ぼすためではなく、神に近づけるためにあるのです。


パウロはローマ人への手紙8章38-39節でもこう言っています。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私達の主キリスト・イエスにある神の愛から私達を引き離すことはできません。」では、何が神の愛から私達を引き離すことができるのでしょうか?これは重要な問いです。それは困難ではありません。悪霊でもありません。ただ一つ、私達自身が神から離れる選択をすることだけです。しかし、ここに良い知らせがあります。もしあなたが神から離れることに疲れたなら、方向転換して神のもとへ戻ることができます。そして神は、あなたを歓迎してくださいます。


詩篇46篇1-3節にはこうあります。「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある強き助け。それゆえ、われらは恐れない。たとえ地が変わり、山々が揺れ 海のただ中に移るとも。たとえその水が立ち騒ぎ 泡立ったも、その水がかさ増し 山々が揺れ動いても。」

イエスは、「私達が困難に遭わない」とは決して言われませんでした。ヨハネの福音書16章33節で、こう語られました。「世にあっては苦難があります。(ええっ!?)しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(おお、そうか!)」ガリラヤ湖の嵐は、その突然さと激しさで有名です。そして、人生もガリラヤ湖のようなものではないでしょうか。何気なく日常を過ごしていると、突然、すべてがひっくり返る瞬間が訪れます。マタイ8章の嵐は、ただの小さな波風ではなく、激しい嵐でした。ここで使われているギリシャ語は「seismos( σεισμός )」、つまり地震のような嵐を意味します。先週の火曜日、東北大震災の14周年を迎えました。その日、人々は普段通りの生活を送っていましたが、次の瞬間には命を守るために逃げなければならない状況に追い込まれました。まさに、嵐です。最初、弟子たちは自信があったはずです(私達もそうではないでしょうか)。イエスは自分たちと同じ舟におられました。他の舟も一緒に航行していました。水面は穏やかでした。しかし、嵐は次第に激しくなり、それでもまだ何とかなると思っていました。ところが、突然、手に負えないほどの状況になり、彼らの自信は消え去りました。「イエス様、どこにおられるのですか?起きてください!イエス様、どこですか?!」彼らは助けを求めただけでなく、イエスに対して「主よ、私達が溺れ死んでもかまわないのですか?」と責めるような言葉を投げかけました。まるで、イエスご自身も同じ舟に乗っていることを忘れているかのように。弟子たちは、イエスを説教者、教師、奇跡を行う方として信じていました。しかし、彼らはまだ、人生のあらゆる場面でイエスを完全に信頼することを学んではいませんでした。私達も、同じことをしてしまいます。「主よ、大変な時だけでなく、私は毎日あなたを必要としています。」イエスは眠っておられました。彼が本当に眠っていたのか、それとも弟子たちが助けを求めるのを待っておられたのか、様々な推測があります。舟に乗る前、イエスは大勢の群衆に仕え、病人を癒し、悪霊を追い出し、権威をもって教えておられ、彼は肉体的に疲れ果てていたのです。これはイエスの人間性を思い起させます。


A.W. トーザーはこう言いました。「キリストは私達の最も悪い部分を知っておられる。それでもなお、最も深く私達を愛しておられる。」私達は、どれほど自力で人生の困難を乗り越えられると思い込んでいるでしょうか。そして、手に負えなくなって初めて、神に助けを求めるのです。


子供の頃、私は野球をしていました。打つのは苦手でしたが、守備は得意でした。私の友人はライトを守っており、私はセンターでした。深く打球が飛んでくると、彼はいつも「俺が取る!俺が取る!」と叫びました。(たとえ、それが私の守備範囲に飛んできたとしても。)しかし、直前になって「お前が取れ!」と言うのです。今になって思うと、私はしばしばこの友人のようでした。私はイエスに向かって、「私がやる!私ができる!」と言いますが、最後の最後になって「やっぱり無理です、助けてください」と気づくのです。最初からイエスに頼っていたら、どれほどのストレスを避けることができたでしょうか。


コリ―・テン・ブームはこう言いました。「キリストだけがすべてであることを学べるのは、キリストだけしか持たない時だけである。」コリ―・テン・ブーム(1892–1983)について知らない方のために説明すると、彼女はオランダのクリスチャンで、家族と共にナチスの迫害からユダヤ人を守りました。彼女の最も有名な著書『The Hiding Place(私の隠れ場)』は、第二次世界大戦中に家族がユダヤ人をかくまった物語を描いています。(私は中学時代にこの本を読みました。)1944年、彼女の家はナチスに踏み込まれ、コリ―、彼女の姉ベッツィー、そして父親は逮捕されました。父親はすぐに亡くなり、コリ―とベッツィーはラーフェンスブリュック強制収容所へ送られました。ベッツィーはそこで亡くなりましたが、コリ―は生き延び、事務的なミスによって釈放されました――彼女と同年代の女性たちが処刑される直前のことでした。戦後、コリ―はキリスト教の宣教活動に生涯を捧げ、神の愛、赦し、そして信仰の力について語りました。特に、暗闇の中にあっても信仰を持つことの大切さを強調しました。彼女の最も有名なメッセージの一つは「赦し」についてです。彼女はかつて、ラーフェンスブリュックの元ナチスの看守と再会し、神の助けによって彼を赦すことができたのです。彼女は、私達が決して経験したくないような嵐を生き抜きました。しかし、私達も皆、それぞれの嵐を経験します。


この嵐によって、弟子たちは自分の力に頼ることをやめ、イエスに頼るしかなくなりました。そして、イエスが語られると、嵐は従いました。すると、弟子たちは元の嵐と同じくらい、あるいはそれ以上に恐れました。クリスマスに「御子は何者か」という賛美を歌いますが、弟子たちは同じように考えていました。そして、私達もまた、この問いを持つべきです。「この人は何者なのか?」弟子たちがイエスを起こしたとき、イエスは最初に弟子たちを戒めました—嵐ではなく。嵐は避けられないものでした(自然のもの)。しかし、彼らの信仰の欠如は彼らの問題でした。「信仰の薄い者たちよ、なぜ怖がるのか?」(マタイ 8:26)。私達はしばしば、自分の能力を信じすぎて、主を信じることができないのです。


恐れと信仰は同じ心の中に共存できません。第二テモテ 1:7 にはこう書かれています。「神は私達に、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。」イエスの存在は、私達の恐れを増大させるのではなく、それを静めるのです。信仰は、嵐が吹き荒れているときでさえ、イエスが支配しておられることを実感します。一方恐れは、嵐の方が救い主よりも強いと思わせてしまいます。夜のニュースを見れば、いかに恐れが煽られているかが分かるでしょう。

弟子たちを戒めた後、イエスは嵐に向かってただ一言「静まれ」と言われました。すると、「嵐はすっかり凪(なぎ)になった」のです(マルコ 4:39)。創造の時に語られたその御声(創世記 1章)は、今も私達の混乱の中に秩序をもたらし、嵐に平安を語りかけます。詩篇 107:29 にはこう書かれています。「主は嵐を静め、波を穏やかにされた。」どんな嵐の中にあっても、イエスには平安をもたらす力があります。時には、私達の周りの嵐を静め、時には私達の内なる嵐を静められます。どちらにせよ、イエスが語られるとき、嵐は従います。しかし、私達には自由意志があります。不安にとらわれ続けることもできますし、信頼することを選ぶこともできます。


嵐の後、マルコ 4 章に出てくる他の舟については言及されていません。彼らは旅を始めましたが、一番重要なときには姿を消していました。これは、人生において人は移り変わるものですが、イエスは変わらず共におられることを思い起こさせます。ヘブル 13:5-6 は私達にこう保証します。「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」と言われたからです。ですから、私達は確信をもって言います。『主は私の助け主、私は恐れない。人が私に何ができるのだろうか。』

ジョン・ウェスレーが亡くなる直前に残した最後の言葉は、「最も素晴らしいことは、神が私達と共におられることです。」嵐の中でも、穏やかな時でも、主の御臨在は決して離れることがありません。あなたの舟にはイエスがおられますか?弟子たちは疑いましたが、それでもどこに向かうべきかは知っていました。ただ、行動が遅すぎただけです。イエスこそが、人生の嵐に対する唯一の権威者です。今日の問いは、「嵐が来るかどうか」ではなく(必ず来ます)、嵐の中で「あなたの舟には誰がいるのか?」ということです。


最後に、一つの歌とともに締めくくりたいと思います。これは、嵐の中を生きるすべての人へのチャレンジでもあります。

水を静めた主の手に、あなたの手を置きなさい。海を鎮めた主の手に、あなたの手を置きなさい。自分自身をよく見つめてごらんなさい。そうすれば、隣人のことも違った目で見えるでしょう。


  イエスが嵐の中で眠っていたことについてどう思いますか?弟子たちの反応と私達自身の信仰を比較すると、どのようなことが学べますか?

  「信仰」と「恐れ」は同じ心の中に共存できないと言われていますが、それについてどう思いますか?あなたの人生で恐れが信仰を妨げたことがありますか?

  マルコ4:36では、他の舟もイエスと一緒に出航しましたが、嵐の後には言及されていません。これは私達の人生や信仰生活において何を示唆していると思いますか?

  あなたの人生で「イエス様、どこにいますか?」と叫びたくなるような嵐を経験したことがありますか?そのとき、あなたの信仰はどのように試され、成長しましたか?

  ローマ8:38-39は、何も私達を神の愛から引き離すことはできないと語っています。しかし、私達自身の選択によって離れてしまうことがあります。あなたはどのようにして神との関係を強く保ち続けますか?

  嵐が静まった後、弟子たちは「この方は一体どなたなのだろう」と驚きました(マタイ8:27)。あなたにとってイエス・キリストはどのような存在ですか?



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