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エマオへの道

  • 4月27日
  • 読了時間: 13分


「エマオへの道」

神戸ユニオン教会 ― 2025年4月27日

ルカによる福音書24:13-37

説教者:Foster Onyx-Gyamfi



ルカ書の中の復活したイエスについての美しい描写は、余りにも生き生きとしてごく自然なので、創作によるものではなく実際にあったことと考えられます。

二人の弟子の悲しみに満ちた歩み、深く考えながらの議論、魂を揺さぶる大きな出来事をエルサレムにいたのに知らないという驚き、心に灯り続ける希望、三日目になっているのにイエスは現れない絶望、その日の朝の墓での出来事の後、何も手がかりがない、というように、これらの描写はすべて自然な感情に満ちています。

「イエスは死んだのだ。もう家に帰ろう」「本当にがっかりしている」「ご自分はメシアだと言っていたのに私たちを救う前に死んでしまった」。エマオへ向かう途中の二人の弟子はこのように話していたに違いありません。イエスの死に対する彼らの失望を考えれば当然です。


ところでガーナ人はサッカーが大好きです。それどころか大好きというだけでは形容できないくらいです。テレビやインターネットがまだ普及していなかった1990年代から2000年代初頭は、多くのサッカーファンが、スタジアムか、試合をラジオやテレビで観戦できる一番近い町までわざわざ出かけていくほどでした。自分たちの贔屓のチームが負けたときの落胆ぶりと言ったら大変なものでした。負けた恥を噛みしめながら周りの人たちで議論して、ゴールキーパー、ディフェンダー、監督を責めるのです。

こうした失望によって、時に過度な飲酒やハンガーストライキ、自殺、様々な悪事へ発展することもありました。失望や裏切りは人生の一部であり、私たちはそれを受け入れ、どう対処すべきかを学ぶ必要があります。そうでなければ、人生で何が大切なのかを見失ってしまいます。


エマオへの道の途上にある二人の弟子は、イエスがイスラエルを救済してくれる、敵から解放してくれると信じていました。ユダヤ人の多くは、旧約聖書の預言にあるメシアがダビデ王の再来のように軍事的、政治的に救済してくれると信じていました。罪と死から救うために来られるとは思っていなかったのです。そのためイエスが死んだ時、彼らはすべての希望を失いました。


この二人の弟子は失意のどん底にいました。約3年半の間イエスに従っていました。イエスが病人を癒し、悪霊の追放し、神の御言葉を教え、数々の奇跡を成し、死者さえよみがえらせるのを見てきました。そんなイエスが死んでしまわれたのは彼らにとって大きな衝撃だったでしょう。

二人の弟子には何が起こっているのか理解できなかったかもしれません。余りにも大きな失望と自分たちの問題にとらわれ過ぎて、歴史上最大の出来事の本質を見失っていました。


実際、今ここにいる私たちも自分たちの問題にとらわれ過ぎて、神の御業を見失っているかもしれません。自分の車を運転するだけでなく、神の車さえ自分が運転しようとするのです。


もう一つ悪いことには、二人の弟子は間違った方向に歩いていました。エルサレムにいるイエスの信仰者たちから去り、自分たちの故郷へと向かっていたのです。エマオはエルサレムからおよそ11キロの場所です。以前彼らは自分を捨てて、イエスに従って何キロも旅をしました。その間イエスはご自分の死と復活の意味について語っておられましたが、二人の弟子はイエスの死の衝撃のせいでそのこともあきらめていました。


時に人生には信仰を捨ててしまうような出来事が起こるものです。皆さんの中にも人生で大変な状況を経験した方がいることでしょう。暗い日々の中で、希望を捨てようとした方もいるかもしれません。イエスの弟子たちもそうでした。その時11人の弟子たちは、部屋に鍵をかけて閉じこもっていました。そしてこの二人の弟子は「もう家に帰ろう」と思ったのです。


彼らは、イエスが約束された「復活」という偉大な出来事がどのような結果になるのかを待つことができませんでした。私たちもまた、キリスト者として困難な状況にあるとき、イエスを見失い、他の信者との交わりから生まれる力から離れてしまうことがあります。自分の失望や挫折した計画に心を奪われてしまうからです。

しかし私たちはイエスを心の中に探し求める時に、イエスだけが与えてくださることのできる力と助けを得られます。私たちは、信仰者同士で集まり、励まし合わなくてはなりません(ヘブライ10:25)。主における兄弟姉妹と共にいるとき、私たちは力を受けます。


「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」(ルカ24:15)。

この二人の弟子は失望し、他の信者仲間から離れ、家に帰る途中でした。希望はすべて失われたと思っていたでしょう。しかし、まさにそのような時に、イエスが彼らのそばに現れたのです。

「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。 苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」(詩編 46:2)。

イエスはいつも私たちの近くにおられ、私たちを助けようとされます。私たちに必要なのは、その御臨在を認め、イエスを自分の人生に受け入れることです。


イエスは二人の弟子に尋ねられました。「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」(ルカ24:17)。 彼らは立ち止まり、悲しげな顔をしました。二人の弟子のうちの一人であるクレオパは、この「見知らぬ人」の質問を聞いて腹が立ったことでしょう。「エルサレムで起きたこんな大きな出来事を知らないなんてどういうことだ」と思ったでしょう。


ガーナの私の民族がその時のクレオパの状況にあったとしたら、考えられる限りのひどい悪態をついたことでしょう。ガーナでは皆が話題にしている出来事を知らない時には、その人は質問をしない方が賢明だとされます。二人の弟子に質問したこの「見知らぬ人」が、もしガーナで同じような状況で質問をしたら、次のようなことわざが返ってきたかもしれません。「雨の音が聞こえなかったとしても、地面が濡れているのは見えないのか」。つまり「エルサレムで何が起きているのか本当に知らないなんて、耳が聞こえないだけでなく目も見えないのだな」という意味です。


以前、民衆に歓喜で迎えられたイエスのエルサレム入城は、イエスの存在を有名にしました。これほど大きな出来事を知らずに過ごせることなどできるでしょうか。クレオパは、その見知らぬ人からの質問に驚きを隠せませんでした。しかしそれはイエスにとって非常に重要な質問でした。イエスは、彼らがイエスの死と空の墓の出来事の意味を本当に理解しているのかを知りたかったのです。二人の弟子は、イエスに関する出来事を見知らぬ人であるイエスに話しましたが、最も大切な点であるその「意味」を見過ごしていました。

このエマオへの道での出来事は、二人の弟子がイエスを信じるようになるために起こりました。この弟子たちは墓が空であったことは知っていましたが、イエスが復活されたことは知らず、悲しみに満たされていました。女性たちが墓が空だったと話し、他の弟子たちも空の墓を認めたにもかかわらず、また聖書の預言がこの出来事を述べていたにもかかわらず、二人の弟子はイエスの復活を信じていませんでした。


今日でも、復活は人々を驚かせます。2千年の間の証拠や証人にもかかわらず、多くの人が復活を信じようとしません。他に何があれば信じるのでしょうか。


弟子たちが信じるには、生きているイエスが自分たちと同じ部屋におられるのを見ることが必要でした。イエスの死の後、あきらめてイエスに出会う前の生活に戻ろうとした弟子たちは少なくありませんでした。エマオへの道の二人だけではありません。ペトロでさえ希望を失い、漁師の仕事に戻りました(ヨハネ21:3)。しかしイエスが現れたことでペトロの信仰は回復しました。御言葉が彼らに現れました。


現代では多くの人にとって、復活されたキリストの愛を体現するクリスチャンとの出会いが、信仰への入り口となります。サタンは人を欺き、心の目を見えないようにしてキリストとその復活を信じさせないようにします(Ⅱコリント4:3-4)。金銭、権力、快楽の魅力が人々の目をくらませて、キリストの福音の光から遠ざけています。

クリスチャンとして、またイエスの弟子として、復活したキリストの愛を示す最善の方法は、福音を語ることです。まだ信仰者でない人が、イエスに出会い、信仰を持つようになるためには、イエスの弟子であるクリスチャンが語らなければなりません。


「『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです』(ローマ10:13-15)。


福音を宣べ伝えるというのは、「よい知らせ」をもたらすということです。絶望し、苦しみ、落ち込み、混乱している人には、よい知らせが必要です。福音を伝えるのは牧師だけの仕事ではなく、すべてのキリスト者、イエスの弟子がすることです。先ほどの聖書箇所は、「牧師」がなければどうして聞くことができよう、とは言っていません。「宣べ伝える人」がなければ、と言っています。宣べ伝える人とは牧師のことだけでなく、神の御言葉を持ち、御言葉を伝えるすべての人を指します。


イエスは、ご自身の物語(御言葉)が世の人に広く知られ、それを聞いた人がイエスを信じるようになってほしいと願っておられます。イエスが救い主になれるのは、イエスを信じる人に対してだけです。


ヨハネ1:12-13にこうあります。

「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」。


ルカ24:25で、イエスはエマオへの道の二人の弟子に言われました。

「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」。

二人の弟子は、イエスの弟子である自分たちを侮辱するような言葉を初めて会った人から聞いて、驚き憤慨したかもしれません。私たちもそんなことを言われたら怒ってしまいます。

しかし、それこそが「真理の御言葉」の力なのです。私たちの内面を明らかにし、愚かさを指摘し、私たちを成長へと導いてくれます。「御言葉」は、愛をもって私たちを叱責します。


「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(Ⅱテモテ3:16)。


私たちは御言葉を読んだり、教会で牧師の説教を聞いたりしたとき、自分の内面が暴露され、自分が愚かで悲しく恥ずかしくなり、自分の弱さを感じることがあります。しかし御言葉によって自分の欠点や愚かさを指摘された時、御言葉に怒ってはいけません。忍耐強く、柔和な心で御言葉を受け入れるべきです。御言葉には私たちを救う力があります。

「だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」(ヤコブ1:21)。


二人の弟子は、道で出会った見知らぬ人に腹を立てることはしませんでした。むしろモーセとすべての預言者から始めて聖書全体にわたり、イエスご自身について書かれていることをイエスが説明するのを忍耐強く聞きました。きっと長い会話だったでしょう。それでも二人の弟子は御言葉を心から喜び、この人にもっと自分たちと一緒にいてほしいと思いました。

彼らが「一緒にお泊りください」と頼んだとき、イエスは彼らの「もっと知りたい」という欲求を受け止めました。

主イエスの生誕を思い起こすと、宿屋には泊まる場所がなく、主は馬小屋でお生まれになりました。しかしこの二人の弟子には場所がありました。自分たちの家に、主の食卓に、そして心に。彼らは初め間違った方向に歩いていましたが、イエスのための場所がありました。イエスのための場所があるところには希望の場所も愛の場所もあるのです。


さて、伝道師、説教師でないあなたは、イエスへの愛がどれほどあなたの人生を変えたかを、誰かに明瞭簡潔に伝えることができますか。イエスを信じ、聖霊に導いてくれるよう頼めば、神があなたに語るべき言葉を与えてくださいます。

私たちは、御言葉を聞くだけでなく、学ばならなければなりません。説教を通してイエスを知るだけでなく、自らイエスと出会わなければなりません。

もし私たちがイエスを受け入れるなら、イエスは御言葉を通して私たちとつながろうと待っておられます。

二人の弟子は、イエスに一緒に泊まるよう引き留め、御言葉に深く引き込まれた後に、目が開かれ、見知らぬ人がイエスだと気づきました。


人は、共に時間を過ごすことで相手を知るようになります。私の妻アイリーンは、誰よりも私のことを知っていると確信しています。私たちは共に時間を過ごしているからです。私たちはお互いのために時間を作ります。イエスとの関係も同じです。忙しい生活の中でも、あなたはイエスとの時間を作っていますか。

アイリーンは私の良い面、悪い面、醜い面の全部を知っています。私のできること、できないことを知っており、私のそばにいて私を支え、守ってくれます。しかしイエスとつながり、共に歩めば、イエスはもっと多くのことを私たちにしてくださいます。


それでは今日、エマオへの道を思い出しながら、皆さんに聞いてみます。

あなたは一緒に歩いてくださいとイエスに頼んだことがありますか。

宗教としてではなく、イエスと確固たる関係を結ぶために、あなたの食卓に、または心の中や日々の生活の中に、イエスの場所を設けていますか。


二人の弟子は、最初はイエスだと気づきませんでしたが、イエスが聖書を説明されると彼らの心は燃え上がりました。そして彼らがイエスを迎え入れたとき、イエスは彼らの目を開かれました。

今日こういう風に祈りましょう。「主よ、私たちの目を開いてください。あなたの真実によって私たちの心を燃え上がらせてください。私たちと共にいてください」。


毎年のイースターを、ただ通り過ぎるイベントのひとつにしないでください。復活したキリストに、実際に出会ってください。イエスは単なる物語などではなく、救い主です。単なる歴史上の過去の人物ではなく、今も生きておられる神の御子であり、あなたが気づかずともあなたと共に歩いておられます。

あなたはイエスを受け入れますか。

あなたの家だけでなく、あなたの時間、あなたの優先順位、あなたの心の中に、イエスの場所を設けますか。


私は、あなたにもっと差し出すようにと言っているのではありません。「もっと受け取ってほしい」のです。

イエスを人生に迎え入れれば、あなたは与える以上のものを受け取ることになります。あなたにもっと受け取ってほしいと思っています。

そしてそれを受け取れば、あなたはエルサレムに走って行き、「よい知らせ」を他の人たちに伝えたくなるでしょう。


御言葉の聞き手にとどまらず、御言葉の実行者となりましょう。

イースターを思うだけでなく、毎日イースターを生きましょう。

イエスと共に歩み、イエスの声に耳を傾け、イエスの物語を語る人として。


祈りましょう。




〇考えてみよう


  1. 失望や期待外れの経験は、私たちの信仰にどのような影響を与えるでしょうか。

霊的な失望に対処するために、エマオへの道の弟子から何を学べるでしょうか。


  1. 弟子たちは墓が空である事実は知っても、その大きな意味を理解できませんでした。頭で理解する知識が、心で信じることへと移行するのが難しいのはなぜでしょうか。


  1. イエスは二人の弟子と共に歩き、聖書を根気よく説明されました。このことから、混乱や疑いの中にある私たちに、神がどのように寄り添ってくださると思いますか。


  1. 私たちが自分の問題に集中するのではなく、イエスに目を向け続けようとする上で、他のクリスチャンとの交わりはどのような役割を果たしていると思いますか。


  1. 今日の説教では、福音を伝えるのは牧師だけではないと言っています。今週あなたがイエスについて誰かに話すには、具体的にどんな方法がありますか。




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