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わたしについて来なさい

  • 4月6日
  • 読了時間: 13分

「わたしについて来なさい」

マタイによる福音書 8:18–22 / 9:9–13

 説教者:Mark Bartsch牧師 神戸ユニオン教会 2025年4月6日


マ生にはたくさんの「招き」があります。あるイベントや集まりへの招待状もありますし、時には本当の招待ではなく、ビジネスの宣伝もあります。「新製品を2,500円でご案内します!」そんな招待はちょっと微妙ですよね。


中には誰でも歓迎されるオープンな招待もあります。「木曜日のスープとパンの会にぜひお越しください!どなたでも大歓迎です!」というようなものです。一方でもっと個人的な招待もあります。「マーク、木曜日にうちに夕食に来ませんか?」と名前を呼んで誘われるようなものです。カジュアルな招待もあれば、結婚式の招待状のようにフォーマルなものもあります。結婚式の場合、返事(RSVP)が必要です。(これはフランス語で「お返事ください」の意味です)招待を受け取ったとき、私たちは「行く」か「行かない」か、選ばなくてはなりません。


私が子どものころ、近所に兄と同じ誕生日の男の子がいました。兄の誕生日パーティーを計画していたのですが、その子の家族も同じ日の同じ時間にパーティーを予定していたのです!どうしよう?すると、母とその子のお母さんが相談して、2人合同のパーティーを我が家で開くことにしました。(母親たちは賢いですね)そのおかげで、誰も2つのパーティーで迷わずに済み、みんなが一緒に楽しむことができました。


でも人生はいつもそんなにうまくはいきません。この世界と主はどちらも「私について来なさい」とあなたを招いています。多くの人は世の中のパーティーにも行きたいし、主の招きの最後の数分だけでも間に合えばいい、と考えます。でもこのやり方はうまくいきません。結局、人はどちらか一方を愛し、もう一方を憎むようになるのです。(マタイ6:24)私は昔の賛美歌「誰の側に立つのか」が好きです。そのリフレインははっきりと答えています。「私は主の側に立っています。」


ほとんどの招待は人生を左右するものではありません。夕食会や誕生日パーティーを逃しても、人生が大きく変わるわけではないでしょう。しかし、たったひとつ、すべてに勝る招待があります。それがイエスが言われた「わたしについて来なさい」という招きです。その招きを断るなら、主があなたに用意された道と人生を知るという、はかり知れない祝福を失ってしまうことになります。少しだけ私自身の「召命」の話をさせてください。

私は横浜の高校で教師をしながら、時々YUC(教会)で代わりに説教をしていました。そんなある時、「来て、わたしに従いなさい」というシンプルな夢を見たのです。ステファニー(妻)と私はそのことを祈り、正直言って、「神様、ちょっと無茶では?」と思いました。というのも、私は熱心な信仰者でもなく、そうだったこともありません。しかし、私たちは誰にもその悩みを話さずに1つの約束をしました。「もし教会とは無関係な2人の人が、『あなたは献身したらどう?』と言ったら、それを神様からのサイン(私たちの羊の毛布)として受け取ろう」と。


するとその翌週の土曜日、教会の清掃日に私は不用意にも大量のガソリンを木の枝の山にかけてしまいました。火をつけると山が爆発しました。爆風で燃えていないガソリンが私の足にかかり、火の玉が通り過ぎた瞬間、そのガソリンに火がつき、私の皮膚と服が燃え上がりました。幸いにも顔にはかかりませんでしたが、私はすぐに病院に運ばれ、足に2度、3度の火傷を負い、その後5週間、まさに地獄のような日々を過ごしました。


痛みの中にあったその期間、神様は約束以上に語られました。4人もの人が(しかも、そのうち2人はクリスチャンでもなく、誰一人として私たちの教会に関係する人ではありませんでした)、ステファニーと私に同じようなことを言ったのです。「マークは牧師になるべきだ」とか、「マークは牧師として召されている」と。私たちが何も口にしていないのに、何度もこの言葉が投げかけられました。その時、ステファニーも私も確信しました。神様が私たちに「来て、わたしに従いなさい」と呼んでおられるのだ、と。神様が導かれる所がどこであろうともです。

「私の好きな仕事はどうするの?(来て、わたしに従いなさい)」 「神学校の学費はどうするの?(来て、わたしに従いなさい)」 「子供たちは?(来て、わたしに従いなさい)」


少し証し話が長くなってしまったならごめんなさい。証しが好きな人もいれば、そうでない人もいます。でも、これが私の召命の物語です。そして、もし私が疑うとき ― 神様を疑うことはありませんが、しょっちゅう自分自身を疑います ― そんな時には必ず思い出すのです。私は教会や教団から召されたのではない、たとえ教会で奉仕していても、人から召されたのでもない、たとえ人々を愛し、仕えるように召されているとしても。私は神様から召されたのです。マタイのように(マタイ9:9)、パウロのように(使徒9:15-16)、そして皆さん一人ひとりのように。そして、たとえ私たちの役割が変わったとしても、「来て、わたしに従いなさい」(マタイ4:19)という召しは変わりません。「来て、見なさい」(ヨハネ1:46)、「味わい、見なさい」(詩篇34:8)と、主は招いておられるのです。


はっきり言っておきたいのは、「召し」は必ずしも牧師や伝道者などの正式な職に就くことだけを意味するわけではない、ということです。昔、KUCで副モデレーターをしていた頃(もうずっと昔のように感じます)、私の役目は教会の奉仕の役割を引き受けてくれる人を探すことでした。それは簡単なことではありませんでした。私は祈り、牧師のブルース先生とも相談し、その上で人に声をかけました。「礼拝の奉仕リーダーや子どもミニストリーの責任者になってくれませんか?」とは聞きませんでした。それは間違った質問だからです。私はこう尋ねました。「神様からこの働きに召されていると感じますか? 祈って考えてみてください」と。そして、ほとんどの場合、最初はすぐに「いや、私は向いていません、忙しいので無理です」と断られましたが、数日後に電話やメールが来て、「やっぱり神様に召されていると感じました。引き受けます」と言ってくれる人が何人もいました。私には簡単に「NO」と言っても構いません、むしろそうしてください。でも、主にはそうしないでください。


今日のマタイの両方の箇所(マタイ8:18-22 / 9:9-13)を読むとき、私たちは非常に、非常に、非常に大切な原則に気づきます。―「召しがどこから来たのかが重要」なのです。確かに、私たちは召しに応答しなければなりません。でも、それは常に「召された後」の話です。卵が先か鶏が先か、という話はよくありますが、召しにおいては必ず「召しが先」で「応答が後」なのです。


ある学識のある人がイエスのもとに来ます(マタイ8章)そして、「弟子になります」と申し出ます。イエスは大勢の群衆に語っておられ、きっとこの人もその人気や盛り上がりに惹かれたのでしょう。そこで「弟子になります」と言ったわけです。するとイエスは彼にその代償を伝えます。つまり、「私には家がないよ」と言うのです。もっと美しく、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもない」(マタイ8:20)とおっしゃいましたが、要するにそういうことです。主に仕える喜びは確かにありますが困難も伴います。師であるお方の召しは、食べ放題の豪華クルーズではありません。イエスや弟子たちは何度も星空の下で眠ったに違いありません。その志願者(召された弟子ではない)にイエスは「従うことは、バラ色ではない」と教えたのです。実際に、そう教えないなら、相手を失望させるだけです。この人のことは、それ以降、聖書に登場しません。


次に、もう一人の人がイエスに来て弟子になりたいと願います。でも彼は条件付きです(私たちもよくやります)。外で寝ることは大丈夫のようですが、自分で奉仕する時間と場所はコントロールしたいのです。彼は言います。「まず、父を葬らせてください」と。しかし、イエスは「わたしについてきなさい。死人たちに、死人たちを葬らせなさい」(8:21-22)と答えます。現代の私たちの耳には、この人の言い分は当然に思え、イエスの答えは厳しく感じられるでしょう。「お悔やみ申し上げます、辛いでしょうね」と言った方が良さそうです。でも、実はこの話にはもっと深い意味があるのです。


当時の文化では「まず父を葬らせてください」という言葉は、広く知られた決まり文句でした。つまり、父親が今まさに亡くなったという意味ではありませんでした。本当に父が亡くなっていたなら、ユダヤの慣習では24時間以内に埋葬しなければならないため(申命記21章)、彼は今頃、埋葬の準備で忙しかったはずです。彼が言いたかった本当の意味は、「今は家族の義務があるので、父が亡くなったら(それがいつになるかは分からないが)、その時にあなたについていきます」というものでした。それは何年も先になるかもしれません。「でも、父が亡くなったら、イエス様、私はあなたのものです」と。彼の献身の約束は条件付きであり、イエスはそれを見抜きました。しかも、イエスはこの人を招いてすらいませんでした。


イエスに従う弟子となるなら、自分で条件や予定を決めることはできません。私の友人は大手企業の採用担当ですが、採用面接の時に「条件が多すぎる人」は危険信号だと言っていました。そういう人はほとんどうまくいかないので、今は最初から避けるようにしているそうです。


私が神に、「神様、分かりました、牧師になります。でも、大きな教会で、素敵な家があって、給料もよくて、毎月第4日曜日は休みにしてください」と言うようなものです。そうではなく、「都合の良い時に従います」でもありません。イエスは今日、あなたを招いています。「いつか」ではなく「今」です。


さて、次の箇所(マタイ9章)を見てみましょう。イエスは歩いておられ、マタイを見かけます―そうです、この福音書を書いたマタイです。彼は収税所に座っていました。当時、徴税人は人々から裏切り者と思われていました。徴税人になるというのは支配しているローマ帝国の下請けになるようなものだったのです。ローマは地域ごとに「これだけの税金を納めろ」と指示します。例えば500世帯ある地域なら500万円の税金を要求します。徴税人は500万ちょうど集めれば自分の取り分はゼロです。でも700万円集めれば、500万円をローマに渡し、200万円は自分のものにできます。徴税人たちは、2倍、3倍もの税金を取り、贅沢に暮らしていました。


そんなマタイを見て、イエスは彼が今やっていることではなく、彼がなり得る人物を見ました。最初の2人とは違い、マタイには可能性がありました。あなたにも、聖霊を信じるならその可能性があります。イエスが望んでいたのは「徴税人」という役職ではなく、マタイがこれからなるべき人間でした。そしてそれ以上にマタイ自身がイエスを必要としていました。だからイエスはマタイにだけ「私について来なさい」と言います(マタイ8章の2人には言っていません)。


マタイは条件を出しません。「週に3日だけ働きます」とか、「特別な特典がほしいです」とは言いません。ただ、すぐに席を立ち、イエスについていきました。まるでイザヤが神から「誰を遣わそうか」と聞かれた時、「ここに私がおります。私を遣わしてください」と応えたように。イエスは、私たちにも目的と意図をもって声をかけています。


ほとんど語られないことですが、神の招きや使命を無視する代償は大きいです。聖書の中でもっとも悲しい話の1つに、ある金持ちで賢い若者がイエスに「永遠の命」について尋ねる話があります。彼は永遠の命は将来の話だと思っていましたが、イエスは「今日わたしに従いなさい」と言われます。しかし彼は、この世のものへの執着のため、悲しみながらその場を去りました。それが彼の代償でした。


私の祖父はカナダで農場を持っていましたが、コンゴでの宣教のために神の招きを受けました。そして祖母にこう言いました。「もし神の招きに従わなければ、私は魂を失うかもしれない」と。そうして、彼らは神に従いました。


私の好きなロバート・フロストの詩『選ばれざる道』を思い出します。

「いつかどこかで私は溜息まじりに語るでしょう。森で道が二つに分かれていて、私は人の少ない方を選んだ。それが、すべてを変えたのです。」


神の招きの道は、多くの人が選ばない道です。それは信仰と愛の道だからです。しかし、その道を行くなら、この世にも、そして自分自身にも大きな違いを生むのです。神があなたを呼ばれたなら、その道を進んでください。それが意味不明に思えても、必ず大きな違いを生むでしょう。


その夜、イエスはマタイの家に行きました。マタイは仲間たちを呼びましたが、彼らは皆「罪人」と呼ばれる人たち、つまり社会のはみ出し者たちでした。でも、誤解しないでください。私たち全員が罪人です。「すべての人は罪を犯した」(ローマ3:23)と書かれています。


ここで言う「罪人」とは、自分の悪い行いを悔い改めない人のことです。私がかつて横浜で知っていた先生は、残念なことに女生徒を虐待し、しかもそれを自慢していました。最終的には生徒が勇気を出して訴え、解雇されました。聖書が言う罪人とは、そういう人たちです。


しかし、ここに聖書のメッセージがあります。マタイ自身が自分と友人たちを「罪人」と呼んでいますが、イエスは、そんな彼らにも赦しと回復の希望があると言っているのです。

イエスはマタイだけでなく、彼の友人たちも救おうとしていました。誰も、元気な時に医者には行きません。ひょっとしたら先生はあなたの気分が良いときに話をしたいと思っているかもしれませんよ。


マーク: 「先生、今日は本当に気分がいいんです。」 

N先生:「では、元気をなくす薬をお出ししましょう。」

マーク:「いえ、結構です。ただ1時間並んで待って、最高の気分だと伝えたかっただけです」。






おかしいですよね。でも、私たちは霊的には同じです。自分には神の憐れみが必要ないと思っているのです。


憐れみ(ἔλεος, エレオス)とは、困っている人や苦しんでいる人への深い思いやりのことです。イエスは、「義人」を招くためではなく、自分の義に頼る者さえ、悔い改めるなら招くために来られました。パウロがローマ人への手紙3章10節で 「正しい者はひとりもいない 」と書いているのは、詩篇14篇3節と53篇3節を指していることがわかります。イエスは私たち全員に内側からの刷新と恵みと憐れみを与えようとしています。それは外的なものではなく、内的な刷新であり、私たちの心の時計をリセットするものなのです。


最後に、イエスに従うということは、単に違う道を選ぶだけではなく、新しく造り変えられる招きです。問われるのは、「私たちにふさわしいかどうか」ではなく、「私たちに喜んでついて行く気があるかどうか」です。イエスが私たちに歩めと言われた道を歩むかどうか、そしてイエスが与えてくださる恵みと憐れみを受け入れるかどうかです。そして、その恵みを他の人々に与えることです。今、イエスはマタイを招いたように、あなたにもその声をかけています。目的と憐れみと恵みに満ちた人生へと。さあ、共に祈りましょう。


話し合いのための問い

  イエスの招きイエスは「わたしについて来なさい」と言いました (マタイ 9:9)。あなたにとって、神の招きを受け入れることの意味とは何ですか?

  招待の種類あなたはこれまでに、人生を変えるような重要な招待を受けたことがありますか?それはどのようなものでしたか?

  従うことの代償マタイ 8:20 でイエスは「人の子には枕する所もない」と言われました。イエスに従うことにはどのような犠牲があると思いますか?

  条件付きの信仰マタイ 8:21-22 で、ある人は「まず父を葬ることを許してください」と言いました。あなたは神に従う際に「まず〇〇してから」という条件をつけたことはありますか?

  あなたの召命(コーリング)あなたは、神が自分をどのような働きへと召しておられると感じますか?それにどのように応答しようと考えていますか?


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