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あなたの土地はどれですか?

  • 5月4日
  • 読了時間: 11分


「あなたの土地はどれですか?」

マタイによる福音書13:1-23

説教者:Devin Stagg 神戸ユニオン教会 2025年5月4日


多くの説教者や教師たちは、「種を蒔く人のたとえ」を義(正しさ)の観点から教えています。しかし今日は、福音の誠実さをもってビジネスを前進させるという「御国の観点」から、このたとえを皆さんにお見せしようと思います。それでは一緒に見ていきましょう。

本題の聖書箇所に入る前に、少し背景を確認する必要があります。その背景はマタイによる福音書6章33節にあります。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」

このたとえを理解するには、この「二つの追求」がどう違うのかを知る必要があります。主は私たちに、求めるべき二つの使命を与えておられます。「神の国」と「神の義」です。

「神の国を求めること」と「神の義を求めること」はそれぞれ別のものです。マタイによる福音書6章の2節、5節、16節では、それぞれ「施し」「祈り」「断食」を通して神の義を求めることが教えられています。一方で、「神の国を求めること」は、これから学ぶ「種を蒔く人のたとえ」に基づいているのです。


種を蒔く人のたとえに出てくる3つの象徴的なたとえ

・種を蒔く人 = 父なる神、そして万軍の王

・種 = 御国のことば

・土地(土壌)= あなたの心と理解の深さ


それでは、この3つのたとえについて詳しく見ていきましょう。マタイによる福音書13章では、種を蒔く人は誰でしょう?種とは何でしょう?土地とは何を意味しているのでしょうか?種を蒔く人は、父なる神、万軍の王です。主権を持つお方として、神はご自身の国(御国)の王であり、その御命令(マンダテ)はご自分の民、つまり羊たちの手に渡されることを意図されています。

種は「御国のことば」です。このことばは、神があなたと私を通して何をしたいと願っておられるかという啓示(啓示された御心)です。しかし、そのことば(種)がどのような実を結ぶかは、私たちがどんな「土地(土壌)」を管理しているかによって決まります。土地とは、あなたの「心」と「理解の深さ」のことです。ユダヤ的な考え方(イエスが語っていた視点)では、「理解すること」は必ず「行動」へとつながるものとされていました。

マタイによる福音書13章では、種(御国のことば)が落ちた四種類の土地(土壌)が描かれています。重要なことは、種自体は「良い」もので、植えられるのにふさわしいということです。焦点となるのは、「土地(心の状態)」なのです。

種は4種類の土地に落ちました:

1.道ばた

2.石だらけの地

3.茨の中

4.良い地

これらの「土地の種類」は、私たちが御国の種(ことば)を受け取り、それが実を結ぶまで保ち運ぶための「理解の深さ(レベル)」を示しています。

つまり、実を結ぶかどうかは、与えられた種(御国の啓示)が問題なのではなく、それを受け取る「心の状態=理解力」にかかっているのです。


1.道ばた

・聞いても「理解しない」

・敵(悪しき者)が来て、その人の心から種を奪い去る

あなたが運び、実を結ぶはずだった「ことば(御国の種)」が取り去られるのは、あなたが悪人だからでも、堕落しているからでもありません。ただ単に、それを「理解していなかった」からなのです。

ある時、私はある説教を聞いていて、その牧師がこんな話をしていました。彼はスティーブ・ジョブズが2007年にiPhoneを出すずっと前に、同じようなアイデアを持っていたというのです。

皆さんにもこんな経験ありませんか?「え、それ俺のアイデアだったのに!!」と思って、腹が立つようなこと。でも、あなたは自分に与えられたものに対して、何をしましたか?

スティーブ・ジョブズ、イーロン・マスク、ビル・ゲイツ。彼らは革新性で知られていますが、彼らと私たちの違いは、「種の管理(スチュワードシップ)」にあります。

つまり、「理解の深さ」によって、その種を育て、実がなるまで守り通せるかどうかということです。

この能力は、義(正しさ)とは関係ありません。「でもデヴィン、彼らは信仰の人じゃないよ」とあなたは言うかもしれません。その通りです。そして実際、その種は彼らのために与えられたものではなかったのです。この理由こそ、イエスがたとえ話(パラブル)を用いて語られた理由なのです。

種(御国の啓示)は、本来それを託されるべき者にだけ理解されるように、あえて「たとえ」にコード化されたのです。敵はその「無理解」を利用して、盗みにやって来ます。つまり、理解する知識を持たない者から、種を盗んでしまうのです。では、なぜイエスはたとえ話を使ったのでしょうか?そして、本当の対象者は誰なのでしょうか?

マタイによる福音書13章10〜11節(新改訳)

それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らにたとえでお話しになるのですか」。 イエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。

主は、ご自身に近い羊たち ― つまりご自身の声を聞き分ける者たち ― に対して、そのメッセージの意味を「知って」御心を行ってほしいと願っておられます。

そしてそれゆえに、私たちには聖霊が与えられているのです。聖霊は、神の御心を私たちに知らせてくださる存在です。主は「あなたを見捨てず、決して離れない」と約束してくださいました。

ヨハネの福音書14章から16章にかけて、イエスは繰り返し、あなたへの約束 、すなわち「聖霊が来られる」こと を語られました。

もしあなたが今、聖霊に満たされたいと願っているなら、あるいは、聖霊と出会いたいと渇いているなら、ぜひ礼拝後に前に出てきてください。私たちは、あなたと一緒に心を合わせて祈ります。


2.石だらけの地

このタイプの人は、「喜んでことばを受け取ります」。つまり、ある程度は「理解している」のです。しかし、根がないため、芽が出てもすぐに倒れてしまいます。

彼らは“与えられた使命”を理解しています。でも、マーケット(現実の世界)でやっていくために必要な「リサーチ」や「準備」が足りていないのです。

実践不足が、倒れる原因なのです。

問題や困難がやって来ると、耐えることができず、すぐにつまずいてしまいます。

ここで重要なのは、「試練は罪の結果として来るのではない」ということ。その試練は、“ことばのゆえに”やって来るのです。本来なら、その試練はあなたを昇進させるための「踏み台」になるはずなのに、理解が浅いと「つまずき」となってしまいます。

中学・高校時代、私は陸上競技をしていました。見ての通り、私は背が高いわけではありませんでしたが、ハードル走に挑戦したかったんです。ジャンプ力はありましたが、全速力で走ったとき、後ろ足がハードルに引っかかって思いっきり転んで、土を食べました(笑)。もっと「練習」が必要だったんです。

この「石だらけの地」とは、まさにそのような状態です。目の前のレース(召し・約束)にはワクワクしていて、「ゴール」に到達するビジョンも見えています。

でも、その途中には「ハードル=障害」があり、それを越えていかなければ、種(ことば)が自分の人生で実を結ぶことはありません。その「ハードル(試練)」は、あなたが霊的・道徳的に間違ったから来るのではなく、むしろ「報い(報酬)」にたどり着くために必要な“プロセスの一部”として来るのです。


3.茨の中に落ちた種

では、「茨」とは何で、なぜそれが現れるのでしょうか?それはマタイによる福音書6章に見ることができます。茨とは以下のようなものです:この世の心配事(食べること、飲むこと、眠ること、着ること:マタイ6:25, 31)富の誘惑(お金や成功に対する執着:マタイ6:22–24)これらが「ことばを締めつけて」、実を結ばないようにしてしまうのです。

この段階にいるあなたは、すでにある程度の前進を見ています。種の状態から根を張り、芽が出始めています。しかし、それと同時に茨のあるつるもあなたの横で育ち始めているのです。このステージでのチャレンジは、「誰に仕えているのか?」を見極めることです。つまり、「御国のことば」の隣に何が植えられてしまっているかを確認するということです。

種の持つ可能性が、あなた自身の経済的な成功のためのものだと勘違いしないでください。マタイによる福音書6:19-23にあるように、「神」と「マモン(金・世のシステム)」の両方に仕えることはできません。

この種を育てていく中で、私たちはいつの間にか「誰に仕えるために与えられたのか」ではなく、「この実が自分にどれだけ利益をもたらすか」に心が傾いていないでしょうか?もちろん、実を結べば影響力や注目が与えられるでしょう。しかし、本来の目的は、「神の国を広げること」です。「茨」は、時にあなたの周りの人間関係(付き合い)であることもあります。しかし、このたとえで注目されているのは「あなた自身」と「あなたの理解の深さ」です。中には、自分自身が最大の敵になっている人もいます。否定的な言葉を口にすることで、自分の根を自分で締めつけてしまっているのです。自己破壊的な思考や言葉が、「茨」となってあなたの人生の実りを妨げています。

私たちは、心を新たにし、神の与えてくださったものに対して命を語る者として召されています。創世記では、神は「ことば」で世界を創られました。そしてあなたは、その神のかたちに造られた存在です。あなたのことばは、“世界”を創るのです!みんなで一緒に宣言しましょう:

「私は神の子です。私は愛されています。私はキリストの心を持っています。私は繁栄しています。私は良い地です!」


4.良い地

良い地とは、聞き、理解し、実を結び、生産する地です(30倍、60倍、100倍)。

良い地とは、御国のことばを「聞く」地

 →「わたしの羊はわたしの声に聞き従う」(ヨハネによる福音書10:27)

良い土壌は、コスト、つまり種を管理するために何が必要かを理解している。良い土壌は動くことによって実を結ぶ。良い土地は、その種が花開くために必要な体制を整える。

良い土壌は、飛躍的な収穫を見込む。理解の深さから、100倍、60倍、30倍の見返りを生み出し、受け取る。良い土壌を持つことは、選択肢ではありません。私たち教会として追い求めるべき姿勢です。主が「御国のことば」を私たちに解き放ってくださった今、私たちはそれを追い求め、共に100倍の実を結ぶ者となることを願いましょう。

地を耕しましょう!では、「良い土壌」になるにはどうすればいいのでしょうか?地を耕すことです!耕すことによって、堅くなりすぎて種を受け入れられなかった地面を柔らかくします。空気を入れ、茨のつるの根を切り、必要な「栄養(肥料)」を加えることができます。ちなみに、良い土って、実は「肥やし(=糞)」が混ざっているんです(笑)!牛の糞、鶏の糞…それ自体は“ただの排泄物”だけど、土に混ぜると栄養になって、土がより豊かになるんです。

時には、人生にも「糞(poo)」のようなものがありますよね。失敗、傷、トラウマ、後悔、恥…。でも、それを主に明け渡して「土に混ぜる」なら、それは肥料に変わるのです。地を耕すというのは、あなたの心を柔らかくし、神が蒔いてくださった御国のことばを深く根付かせるための準備です。それら(=人生の中の糞)のことを脇に置いておくのではなく、それに向き合い、土の中に再構成されることを可能にするのです。良い経験も悪い経験も、あなたの内にある神サイズの夢のための燃料になるのです。

糞に向き合わないというのは、汚れたオムツを履いたまま歩き回って、「自分は臭くない」と思い込んでいるようなものです。「糞なんて見たことも嗅いだこともない」なんて、装わないでください(笑)。私たちは、「まだ手放す準備ができていない」古い習慣や経験を今もなお引きずっています。

たとえばこういったものです:私の肩書き、私のミニストリー(奉仕)、私の離婚、私の依存症(ポルノ、お酒、タバコかもしれない)、私の国籍や民族性……それらを「神の子ども」というアイデンティティよりも先に出してしまってはいませんか?あなたはこう言うかもしれません――「そんなものは、私の本質を定義しない!」

でも、実際には多くの場合、私たちはそれらを言い訳にして、教会の外ではそういうアイデンティティを身にまとい続けているのです。私たちは心を新たにし、その古い思考パターンや習慣を耕し直す必要があります。

キリストに来たとき、私たちは新しい命をいただきました。しかし、それと同時に、心を新たにしなさいと命じられているのです。新しく生まれ変わりなさい!そして、神の義と神の国の両方を追い求めなさい。

だから、一緒に旅に出ましょう。

あなたは、この4つの土壌のうちのどれにいますか?私に正直になる必要はありません。ただ、主に対して正直になってください。私自身、主に問いかけました。過去には「茨の中の種」の段階にいると思っていたけれど、最近ではこのたとえ話を本当には理解しておらず、むしろ深さのない土壌に戻ってしまっていたことを感じています。

今、皆さんにもご理解いただけたと思います。なぜ「40日間の深み」が、私たちの教会にとって重要だったのか。私たちはもっと深みに潜る必要があるのです。そしてこの教会においても、また私たち自身の人生においても、御国のことばを優先する必要があるのです。

箴言25:2

「事を隠すのは神の誉であり、事を窮めるのは王の誉である」


KUCへの御言葉

私は主からKUCに語られている御言葉を受け取りました。ずっと分かち合いたいと思っていたのですが、今日それを語ってもよろしいでしょうか。

主は私たちにこう言っておられます:「あなたがたは、一つの国を導き、育て上げることができるか?そして、小さな思考を乗り越えられるか?あなたが今まで味わってきたぶどう酒は古いぶどう皮からのものだ。あなたは、新しいぶどう皮へと移る準備ができているか?私は、わたしの臨在をあなたに注ぎ出すことを待っている。すでに皆さんはその一部を味わっているが、この働きのために新しい事柄を管理することに献身的になれますか?」

国レベルの影響力を考えなさい。この家(=教会)は、人々を解放からリバイバルへと導く「響き(サウンド)」を管理し始めることになる。

この都市は「ベテル(神の家)」と命名されている。しかし、この恵みを管理するという責任(マントル)を引き受けることをいとわない者は誰か?私は、イザヤのように「主よ、ここに私がいます。私を遣わしてください!」と言う者を探している。

だから、立ち上がれ、KUC!今こそその時だ!

青信号(Green light)が目の前にあります!わたしの御国を追い求めなさい!


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